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子どものいない未来。形あるものを失ったわけではない「曖昧な喪失感」
久々にとあるイベントに参加してきた。
それは「妊活についてどうしようか迷っている人向け」のイベント。
(対象者は特定してはいないが、同性カップルであったり、シングル女性であったり、一般的な夫婦やカップルでは無い人)
私のように、子どもが欲しいのだけれども、子どもを授かるにはひと工夫しないといけない人たちが集った。
私は結局、子どもが欲しいけれども一歩踏み出せずに今もこうしている。
「欲しいなら行動すれば!」と私自身も言いたくなるが、痛さと費用と倫理観が前をふさぐ。
子どもがいなくても私の人生は善いものである。
と、思っていることもあり、どうにも前に進めない。
パートナーとの関係も良好。
相変わらずパートナーは妊活について二の足だが、それも鈍くさせる要因になっている。
そんな、どうして良いのかわからないまま月日は流れ(卵子は年齢を重ね)。
私のようにもやもや悩んでいる人向けのイベント。
登壇者は同性カップルで妊活をして精子提供者の都合で妊活が止まっている方と、夫婦で妊活を始めて結局は授からずに子供のいない人生を送っている方。
「解決方法」を伝授するイベントは多いが、こうして「もやもや」したものを抱えた人が結局は解決には至らなくても、なんだか一歩前に進められたような気持ちになるイベントの良さがあった。
お二人のトークの中で印象的な言葉。
曖昧な喪失感。
目の前にいた人が死やら出来事でいなくなってしまう、喪失してしまうことは、もちろん悲しいことであるが、
子どもを授からなかったことは、もともといなかったものを失うという喪失感、いわゆる曖昧な喪失感であると紹介された。
曖昧な喪失感は大々的に悲しむことが、どうしても憚られる。
「もともと子どもはいない。子供のいない人生になったとしても失ったものはない」ように思われるし、当の本人もそう思ってしまうけれども、
確実に失っているのだ。
一度描いて、目指してきた未来が、確実に失われている。
でも、他人からはその未来の喪失は見えないし、当の本人もそれで悲しんでいる自分を責めてしまいがちになる。
離婚もそう。
相手がいなくなったわけではないが、結婚したときは「幸せになろう」と思って描いた未来が何らかの形で失われてしまった。
離婚して悲しんでいたとしても、選んだのは自分だと、悲しむことを許されない空気もあるだろう。
でも、きっと、私たちはその曖昧な喪失感でも大いに悲しんでいいはずだ。
想像した、目指した、描いた、手にしたかった未来がなくなることは紛れもなく痛みを生じているし、身が引き裂かれる思いだから。
誰しもが二分できない思いを抱えながら生きている。
だから、そのような思いを吐露できる場を作ってくれた今回のイベントこそ、とても大切な機会だと思った。
「曖昧な喪失感を抱えている人たちが目の前にたくさんいる」という、曖昧ではない現実に触れることができた。