造られた命
先日、『エイリアン:ロムルス』鑑賞してまいりました!
仕事あがり、初めて行った調布のシアタスにて、IMAXレイトショー。
僕としては、『ドント・ブリーズ』のフェデ・アルバレス監督作品というのにはかなり惹かれた。ものすごく良かった。
深く暗い宇宙空間の息の詰まる静けさと美しさ、レトロフューチャー愛あふるる機器類やガジェット、あとフォント!蒸気、鎖、砂埃、油のダーティーさ。画と音の丁寧な生々しさに、冒頭からグッと世界に引き込まれる。そして、登場人物たちの心情と行動原理がとても切実でやるせなくて、だからこそ巻き込まれていく彼らの姿がとても恐ろしい。ショック演出は控えめなのに、心に宿る無念さが残酷に刺さる。全然スケールの違う『ドント・ブリーズ』と重なるところも興味深い。舞台がデトロイトから宇宙になって、お爺ちゃんがエイリアンになったような。恐くて、悲しくて、どうにか生き抜いて幸せになってほしいと願いたくなる。
そんな中、戦闘経験なんてない主人公レインが、如何に立ち向かうのかにはワクワクさせられるし、だんだんリプリーに見えてくるから面白い。やー丁寧な仕事だったなーと感銘を受け、ホクホクで夜中の1時に上野原へ帰宅。オトナな夜遊びだぜ。
しかし、後日ネットで目にする感想では、けっこうエイリアンのシリーズ好きな方たちからの評判が悪い。そうか。そんなにか。仕方がないけど、まあちょっと残念。読んでいて思ったのは、どうやら僕は、エイリアン自体の様子や登場の仕方にはあんまり興味が無いのかもしれない。
良いとこいっぱいあったのにな、と思い返しながら、ひとつ思い出した“良いとこ”があり、そのことについて考えた。
ネタバレになるのでボヤかすけど、とある、もう現実には亡くなってしまっている俳優さんが演じた役が登場する。1作目『エイリアン』の登場人物なので、当時の若い顔で。これがなんとも言えない不気味さがあって、非常に巧いなと思った。僕はもう亡くなった俳優さんが出てくるっていう時点で、すごくグロテスクなことをしていると思うのだ。
どんなセリフを喋って、どんなふうに動いていても、そこにはもう演じる人間の意識は全く存在しない。家で台本覚えてきたとか、リハで動きを確認したり、演技を打ち合わせたり、緊張したり、うまくいって安心したり、そういうフェーズが無い。それってもう操り人形のようだ。なのにかつて実在の人物だったことの異様な生々しさがある。
そこに物凄くゾッとしたのが、『ゴーストバスターズ / アフターライフ』の“イーゴン”が登場したときだった。幽霊として、感動的なストーリーに導くために都合が良いように動かされているCGのイーゴンが僕は恐くて気持ち悪くて、こんなことして良いのか…?と考えてしまった。
だから『エイリアン:ロムルス』で、フェデ・アルバレス監督はたぶん、このグロさを分かってやってんな、って感じがした。エイリアンシリーズから感じる「生命のおぞましさ」にも皮肉に響き合う、実にピッタリな配置だった。で、これがこれからの映画や色々への、“注意喚起”にもなっちゃえばいいなと思う。
最近、古い映画シリーズが10年とか20年とかぶりに続編が出るケースは珍しくなくて、それは嬉しかったり、不安だったり、驚きも含めて楽しい。ただ、ストーリー上どうしても必要で、あるいはシリーズファンへのサービスとして、既に亡くなってしまった俳優さんを登場させることも増えてくるのかもしれない。きっと遺族の方へ許しを得てやるのはもちろんなのだろうけど、それは、しれっと死者を蘇生させちゃってるような、基本的にグロテスクで不気味なものかもしれないよ?って、一旦考えてみてほしいし、あんまり面白半分でやんないほうがいいんじゃないかと思う。感動的に仕立て上げようとするべきじゃない気がするのだ。
日本でも、以前なんかのテレビで美空ひばりをAIで再現しているのは見かけて、正直、僕は恐怖心しか沸かなかった。かけがえのないの存在というものはどうしたってあるけれど、なるべく生きている人間でなんとかしようぜ、とか思う。