マンデラ効果とセブン
先日、友達(Jaaja、PLUTATA、0点のゆうにゃん)に聞いた話。
「ピカチュウの尻尾の色」を想像してみていただきたい。
想像するだけでもいいんだけれど、場に何人かいるならば、各々でそれを絵に書くなり、言葉で言ってみるなりしてみてもいいかもしれない。
そして答え合わせに、画像検索してみよう。さあ、どうだろうか。あなたは正しい尻尾を思い描けただろうか。
僕はというと、見事にハズレてしまった。おおよそ当たっていたのに、余計な色を加えてしまったことでハズレた、という感じ。「全体は黄色で、先っぽだけ黒」という絵が頭に浮かんでいた。「あ、自分もそう思った!」という方は挙手。残念、ハズレです。実はそのような模様っぽい部分は無くて、ピカチュウの尻尾は基本が黄色オンリーなのだ。画像によってはグラデーションがあったりするものもあるが、「先っぽが黒」というものは出てこない。
これにはかなり驚いた。けっこう自信があったからだ。ホントはゲームのポケモンやったことがなかったりするのだけれど、さすがにそんな言い訳は通用しないレベルの超有名キャラ。たくさん見かけてるし、なんなら先の黒い尻尾がアニメで動いていたような記憶すらあるのだ。
自分ひとりの話であれば、そもそも僕の記憶力なんて大したものじゃないので、単に勘違いとも言えてしまう。しかしなんと、大勢の人間がまるきり同じような勘違いをしているのだという。ある事物に対して、集団的な勘違いが起こってしまう現象、それを「マンデラ効果」と呼ぶのだそうだ。ピカチュウの尻尾の色はその代表例。僕の脳味噌は、まんまと自信たっぷりに見たこともない空想の尻尾を捏造したのだ。そして「勘違い」で見ず知らずの世界の皆さんと繋がっているっていうのが、なんだか悔しいような嬉しいような、なんとも不思議な気持ちにさせてくれる。
ところで、こういった具合の一聴しただけでは頭に「?」が浮かぶような、ちょっと間接的なネーミングセンスはつくづくなんだか洒落ているなと思う。僕なら安易に「集団勘違い」とでも呼んでしまいそうだ。「バタフライ効果」とか、「パブロフの犬」とか、「シュレリンガーの猫」とかとか、なんかそっちのほうが覚えちゃう感じがある。芸がある。「マンデラ」は、南アフリカ元大統領のネルソン・マンデラ氏に由来する。「ネルソン・マンデラは獄中死した」という、史実とは違う記憶を持つ人々が大勢いたことが判明し、発見された現象とのことである。面白い。まんまと面白い。で、この現象については、科学的にというよりも、並行宇宙での別の現実説とか、ファンタジックな方向で研究がされているそうだ。わし、そういう話、好っきゃで。
さて、これを聞いて僕が真っ先に思い出したのは映画『セブン』のラストであった。サスペンス映画なので、観た人ならわかるかな、くらいに伏せて書くと、犯人を追い詰めた〇〇が、そこに届けられた〇〇の中をのぞきこむと、そこに〇〇の〇〇が入っている“らしい”というシーンで、僕はその〇〇がしっかり映るショッキングなカットがあったような気がしていた。だけれど、そんなカットは存在しない。ディレクターズカット版とか、バージョン違いとかじゃなく、まったくもって存在しないらしいのだ。以前、町山智浩さんがラジオか何かでその件について語っていたことで知らされ、僕はめちゃくちゃ驚いた。う、嘘だろ?…とつぶやくレベル。ズバリ、これもマンデラ効果の一例とされているのだそうだ。無数にある並行世界のどこかのデヴィッド・フィンチャー監督は、そのカットを入れるべきって選択をしたということか。そういう細かな判断で枝分かれする世界、途方も無いことになるな。
「並行宇宙での現実!」っていう考え方、僕は好きなのでいいのだけれど、もうちょっとだけ自分なりのリアリティラインに寄せて考えると、これはどうことなのだろう。もし、並行宇宙に起こったことの記憶が混在してしまう、というようなことなのだとしたら、これは大勢が同じ情報を共有できる人類文明のレベルに至って、人々が「記憶の擦り合わせ」が出来るようになったことでついに発見された現象なんだな、と思う。そこが面白い。しかし転じて、大勢が同じ情報を共有できる現在だからこそ、その大勢がどこかで原因となるソースに同時に触れてしまうことで発生しているような気もしなくもない。まあ追求はしないし、どっちにしても面白い。面白がりたい。いずれにしても、大小様々、実はまだまだ見つかっていない事例がたくさんあるのだろうなとは思う。誰かと擦り合わせてみるまでわからない。わかりようがないのだから。ただ、何が本当の原因かはさておき、人ってのは、自分が信じたいものを信じてしまう傾向があるんだろうな、とは思う。改めて思わされる。
ついでの余談なのだけれど、「小田さん、音楽やりながら普段は農家で、野菜を作ってるんですよね」と、あちらこちらでよく言われる。しかし、実際には野菜農家をやっているのは妻であり、ちょっとした手伝いを頼まれた場合を除いて、僕は普段、畑に足を踏み入れることすら無い。野菜には根っこがあるが、僕=野菜農家という説は事実無根である。野菜に関しては全て妻の手柄だ。都度々々、そんな説明をして誤解を解いて回っているのだけれど、同じ応答をする機会があとを絶たない。これはもしかして、いや最早、マンデラっちゃってるんじゃないだろうか。とか、そんなことを思ったりしている。