エンドロールが好き派



皆さんは、エンドロールは観る派でしょうか、観ない派でしょうか。
映画館で、本編が終わったらすぐに席を立ってしまう人と明るくなるまで座っている人がいる。それはどちらでも良いと思うのだけれど、僕はエンドロール観る派。なので、明るくなるまで座ってる派。そして、エンドロールというものが好き派だ。

子どもの頃からエンドロールが好きだった。黒バックに中央寄せで配置された白い文字がズラズラと上に流れていくのをゲーム的に眺めていた。マリオ(昔のバージョン)っぽいキャラクターが、文字を足場にピョインピョインと飛び回って下っていく姿を空想して楽しんでいた。
だんだんとクレジットの内容も気になるようになる。読んで分かるほど詳しくないし、言語によってはそもそも読めないのだけれど、読めないなりにも受け取るものはあるし、「めちゃくちゃたくさんの人が関わってるなぁ」とか、「この肩書きなんだろう?」「気づかなかったけど、同じ役者が2役やってたのか!」とか、そういうのが面白い。
そして、流れる音楽と伴に物語を思い返し、思い馳せる時間でもあった。要は“余韻”というものを味わう体験になっていた。だから今でも、観た映画がちょっと面白くなくても、なんとなくエンドロールを終えるまで立ち上がれない。「エンドロールまでが作品」という感覚がある派なのだ。
さながら、ラーメン好きの方がスープを最後のまで飲み干すが如く。僕にとってエンドロールはラーメンスープみたいだなと思う。(ちなみにスープは残しがち派)

そんなわけで、僕は文字が上に流れていくだけでも「わはは、エンドロールだぁ!」って感じで、ちょっとテンションが上がってしまう。いろいろ工夫を凝らしたエンドロールもあって、良エンドロール、珍エンドロールなどなど、エンドロールの話なら何時間でも聞いていたい。
あと、エンドロール後にオマケ映像が付くタイプのも増えてきて気が抜けない。あれは好き嫌いが分かれるかもしれないけど、僕としてはオマケEDも楽しい派である。

自宅で映画を観る場合も、エンドロールはなるべく観たい。音も画面も小さいし、映画館ほどは集中して観ないのだけれど、やっぱり余韻が好きだし大事だと思うのだ。
ところが、配信サービスの中には、黒バックのエンドロールが始まると「次はこちらいかがでしょうか?」みたいな感じで、オススメの作品が表示されるものがある。エンドロール好き派の僕は、あれが許せない派である。
「くう!俺の余韻を邪魔しよってからに!」と、そのバナー部分を消そうと思ったのに、操作が遅かったり、指先がズレてたりで次の作品が始まっちゃったときなんてのはもう最悪。瞬間、余韻は失われる。余韻は情感の積み重ねである。取り戻したくば、もう一度鑑賞しなおさねばならない。しかもそこで得られる余韻は、初鑑賞時とは似て非なるものなのである。余韻との出会いは一期一会だ。

エンドロールをどうでもいいと感じる人がいても仕方がない。データ的には僕みたいなのは少数派なのかもしれない。だがしかし、映画コンテンツを配信している側がエンドロールという作品の一部を蔑ろにして良いのだろうか? …これじゃ、麺が無くなったラーメンスープを「モウタベマシタネ、ステマショウカ?」と言うロボットがやって来て、あたふたしてるとサッと奪い去り、勝手に捨ててくれちゃうサービスみたいな感じ。こわい。

作り手はこのシステムに納得しているのかしら。それに関わった人たちもエンドロールにクレジットされていることは名誉なはずだ。その家族親族だって、エンドロールで名前を探すのを楽しみにしているかもしれない。うん、考えれば考えるほど、あのバナーは何か大事なものを犠牲にしている気がしてならない。

「エンドロールが好きだったよな〜」と、さらりとエンドロール好きの話を書く回と思ってたのに、文句が長くなりすぎた。
ともかく、僕はエンドロールが好きで、今のところはエンドロールがあるのが基本だけれど、コスパタイパの世の中。このまま不遇の扱いが進むことで、作品側から無駄なものとしてカットされたり、もっと観られるようにと面白可笑しい工夫がされすぎたりして、“余韻”としてのエンドロールが絶滅危惧種的になってしまったりしないといいな、と、勝手に心配している。そんな派である。



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