浦島太郎とインター・ステラー
ある日、娘7歳と風呂に入っているとき、『浦島太郎』の話題になり、そこから『インター・ステラー』の話に発展した。
娘は以前、『浦島太郎』の読み聞かせをしてやったところ、そのエンディングを聞いて「え?おわり?なんで…」と、つぶやき、涙を浮かべてその場から走り去った。ショックをくらったのだ。改めて考えると確かにこの話の余韻はツラく、味わい深い。全然楽しい話じゃないし、“くらう”に相当する。つまりは素晴らしく楽しんだとも言えるのだ。僕は「ガーン」という擬音が聞こえてきそうな表情をしている娘に、とても満足したのだった。
風呂で僕は「『浦島太郎』は宇宙に行った話かもよー。」と言ったのだ。かつて、『インター・ステラー』を観てから、竜宮城は地球と別の重力の星で、亀は宇宙船かな。浦島太郎は不時着して困っていた宇宙人を助けて、異星の科学の力で宇宙に連れて行ってもらったけど、地球に帰ってきたら何年も経ってしまっていたのかな、なんて考えていた。娘は普段アニメ漬けなのだが、珍しく別のベクトルに興味を持つキッカケとなり、その夜の夕食の後に一緒に観てみることにした。とても長いから、最初の津波の星からステーションに戻り、ビデオレターを観るシーンまでで今日はおしまい。なんだか色々考えながら観ていた。
次の日、続き観ようぜと誘うと、もうやめると言う。いやいやせっかくだから最後まで観ようと言っても聞きやしない。
しかし、ふと娘は言った。
「まえからかんがえてたけど、いつか、おとうさんとおかあさんがさきにしんじゃうんだーって、かんがえちゃった。」
目には少し涙。どうやらまた新たに、“くらった”らしい。
そうか。最後まで観ることより、何か感じたならそれでいいと思った。僕は満足して、夜中にひとりで続きを鑑賞することにした。
『インター・ステラー』という映画は、僕の学の足りない脳みそでは正直お話を追いきれないのだが、なんだか観ていて、わけがわからない涙がこぼれでる。理屈を超えて切なく苦しくなり、とても尊い願いの塊をぶつけられたような感じがする。ビターで、ワクワクするような新しい冒険SFだけど、それ全体が親子や、死や、もっと身近で現実的な出来事の隠喩のようなお話にも感じる。もう言葉が届いてないかもしれないのに語りかけるビデオメッセージ、僕はまだやったことがないが、墓前や仏壇の前で近況や悩みを語る人の姿にも似て見える。
親とは幽霊。そうかもしれない。そして、いつか幽霊になったとき、時間を飛び越えて、何かサインを送ろうと必死になるのかもしれない。
そして、やっぱり正しい順序でこの世から去っていけたらいいなと思う。当然のようだけど、それが叶わない悲劇もたくさんあるからなあ。
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