Crying in H Mart Hマートで涙する
2011年9月11日
最近は仕事でも趣味でもアジア系アメリカ人の本を読むことが多いのですが、この本もその一環。母親が韓国人、父親が白人アメリカ人というミシェル・ゾウナーによる自伝。
以前にも書きましたが、今アメリカは空前の自伝ブーム(?)で、20代30代の若者が自伝を書くんですよね。これはいわゆる日本語の「自伝」とはちょっとニュアンスが違うのかもしれません。メモワール、つまり回顧録に近いのだと思います。しかし、侮ることなかれ、先日、感銘を受けた本としてご紹介したEducatedも濃い人生を送っていて、20代とは思えません。
さて、表題のH Martというのは全米の都市にある韓国系のスーパーマーケットです。シカゴにもありますよ!私はもう少し規模の小さい、でも抜群においしい食堂のあるお店を贔屓にしていますが、Hマートもたまに行きます。Hマートはデリバリーをしてくれるのでロックダウン中は重宝しました。
お話としては著者の生い立ちなのですが、彼女の母親が50代で癌で亡くなります。私の母も50代で癌を発症し、62歳で亡くなったので著者の母を失った嘆きに自己投影してしまいました。著者と母親との関係は、著者が一人っ子であることや、母親が慣れない外国で暮らしていることで、母娘の結びつきにおいてまた違った様相を与えるのだろうな、と思いながら読んでいました。
そして、何よりも今まで気がつかなかったことは、彼女のようなダブルのアイデンティティーを持つ人が、その片親を亡くした時に感じる喪失感でした。それはもう一つの文化の拠り所を無くすような気持ちになる、ということ。小さいスケールで言えば、母が亡くなって母方の家族と疎遠になる(私の場合幸運にも実際には疎遠にはなっていませんが)ということはあるかと思いますが、それが国や文化の単位で起こるのだな、ということに思い至りませんでした。
ミシェルはアメリカで育ったため、韓国語は流暢ではありません。でも、母親の作る料理は好きですし、一年おきに尋ねるソウルでは母方の家族の家に住み、ソウルを満喫するのです。また、アメリカでは容姿を褒められることがなかった著者は、韓国では褒められることで「帰属意識」を感じます。
反抗期もありながら、強い母親との結びつきを維持していたところ(逆にいうと父親との関係は大人になるにつれ希薄になっていきます)、母親の病気がわかります。家に帰り献身的に看病するミシェルですが、母親の友人が南部からわざわざオレゴンに来て、母の看病をします。彼女の作る韓国料理のほうが母親は好きなことから、ミシェルの劣等感が刺激されます。それは単に母親は自分の料理は好きでない、というものだけでなく、私の料理は本格的な韓国料理じゃない、私は本格的な韓国人ではない、というアイデンティティーの悩みにまで発展するのです。
というように、食がアイデンティティーにとって、どれだけ大きいかも実感させてくれます。だからこそ、母親を亡くしたあと、Hマートで泣いてしまうのです。例えば日本だと親が亡くなって「春の七草ってなんだっけ」とか「おせちのお豆はどう炊くんだっけ」とか、ふと思って、もう気軽に聞けないという事実に途方にくれたことがある方も多いのではないかと思います。
移民であったり、ダブルであったり、なんらかの理由で帰属意識をどこにも感じられない人、というのは(たとえ自国にいても)今は多いのかもしれません。そういう意味では、すごく個人的な内容なのに普遍的な不安感がうまく描かれた傑作だと思います。ちょっとしつこいところもあるけど。。。ご愛嬌。
著者は実はJapanese Breakfast というバンドのボーカルでもあり、この本は母親が亡くなってから、あきらめかけていた音楽のキャリアの道がひらけアジアでツアーをすることになるの顛末まで描かれています。香港、上海、東京、大阪とアジアの諸都市を巡ったあと、最後はソウルで終わるこのツアーは、母親の死以上にクライマックス感がありました。それはツアーが盛り上がった、と言う意味ではなくて(盛り上がっていたようですが)、母親の死がゆっくりと訪れ、ドラマチックな盛り上がりが無いのに、一生ずっと尾をひく体験であるのに対し、ツアーは一生の思い出とはなりますが、終わりがはっきりしている、ということです。
著者はツアーが終わったあともしばらくソウルのアパートでお連れ合いと暮らすことにするのですが、母親の死でソウルという街、母方の親戚との親交が終わったわけではないことが描かれます。一方バンドメンバーはソウルでお別れです。そういった様々な出会いと別れの仲で、受け入れたり、受け入れられたり、喧嘩をしたり、死別したり。今後、彼女と韓国の親戚との関係がどうなるかわかりませんが、彼女の母親を思い、母親の料理を思う悼みの作業はまだまだ続くことでしょう。