Where the Crawdads Sing 空と波の歌うところ
2020年3月31日
コロナの影響で色々と不断とは違う生活を強いられている今日この頃ですが、そして、それを楽しもうとしている矢先に、大風邪をひくという大失態。
本を読もうにも、本を支える気力もなく、ただただベッドに伏すのみの2日間。ようやく、ごそごそ起き出して、読んだのがニューヨーク・タイムスでも長らくベスト・セラー入りしていたデリア・オウエンズのこちらの本。
ノース・キャロライナの沼地でニグレクトされ一人で生き抜いてきた少女のお話。物語は1955年に10歳で親にも兄弟にも見放されたカイア(本名はキャサリン・ダニエル・クラーク)は、「沼地の子」(the Marsh Girl)と呼ばれ、街の人からも冷たくあしらわれる中、ジャンピンというあだ名の黒人の小さな雑貨屋さんの店主、そして彼の妻であるメイベルが、彼女をそれとなく助けます。不遇の彼女を助けるのが、不遇を強いられていた人たちというのも心を打ちます。この店では沼地で使われる移動手段としての小型ボートのガソリンを売っているので、カイアもボートの操縦を覚えて、それが彼女の唯一の移動手段として活躍するのです。
学校にも行けず、なんとか沼地で取れる貝や魚を売ることで日銭を稼いでいた彼女は文盲で、彼女に字を教えることになるテイトとの初恋が描かれるものの、概ね、カイアは孤独な生活を強いられます。それを癒やすのは彼女を取り囲む自然でした。波であったり、カモメであったり、植物であったり。
そんな彼女が殺人の容疑者として逮捕され、裁判にかけられます。ここで、街の人たちの彼女への偏見があらわになる反面、彼女を支援する人もあらわれます。最後のドンデン返しも含め、この事件は、殺人であったかどうかも定かではなく、事故かもしれない、誰か他に殺人を犯した人がいるのかもしれない、あるいはカイアと自然との関係を考えると、自然が彼女のために犯した殺人かも、とさえ思わされます。そのため、誰が犯人かをあてる推理小説とは異なる『環境小説』となっている所以かもしれません。
カイアは、狼に育てられた少女のように、なかなか大勢の人と馴染めず、強烈な「見捨てられ体験」から自分を100%開示することができません。それを受け止める登場人物も出てくるのですが、最後の最後までカイアはいくつかの秘密を胸に秘め続けていたのでした。そのあたりのリアリズムーー人間はそう変われないーーも、悲しいけれど共感できる部分かもしれません。
しかし、主人公でありながら、彼女のモノローグは詩でしか表現されず、彼女の内面の葛藤が描かれる場面はあまりありません。その為、一度だけ、普段は物静かで感情をあらわにすることが無いカイアが、唯一身内に自分の見捨てられ体験に対して怒りをぶつけるところ、そしてそれに対して自己嫌悪に陥るところは、強烈です。後は、たんたんと物語が進むため、逆に彼女の孤独が胸に沁みます。
子どものニグレクトを題材とし、彼女の辛い孤独な生活を描きながらも、彼女を取り巻く自然によって読者も癒やされる、というこの本、ナチュラリストの作者の最初の長編フィクションとは思えない構成力で、ぐいぐい読ませます。
ところで、蛇足ですが、タイトルのCrawdadsとは、日本でいう「ザリガニ」みたいな生きものなのですが、ザリガニだと語感が悪いですよね。「ザリガニが歌うところ」なんて。。。日本語だと、キーワードであるMarsh Girl(沼地の少女)とか?でも、日本の沼地とはちょっとニュアンスが違うかもしれません。ノース・キャロライナの特殊な環境で、海に続いている沼地で水路が内陸まで入り組んでいる、という感じでしょうか。プロの翻訳者の方が、どう訳すか興味があります。(この後、この作品が映画化され邦題が「ザリガニの鳴くところ」となったと知りました。)