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Afterparties パーティーの後で

2021年10月26日

最近は、アジア系作家の本を続けて読んでいます。この本は、ニューヨーカーの書評で、私の好きなHua Hsuが好意的な書評を書いていたことから手に取りました。これは実はHsuの書評で知ったのですが、カリフォルニアのカンボジア系コミュニティーでは、最初の移民であったTed Ngoyがドーナツ店を買取ったことから次々事業を拡大し、ドーナツといえばカンボジア系、というステレオタイプがあるそうです。これは、コンビニエンスストアといえば、あるいはドライクリーニングといえば、といったステレオタイプと同様のものでしょう。

著者はスタンフォード大学へ進学するなど、将来を期待されていましたが、この本の出版をまたず、ドラッグの過剰摂取で28歳の若さで亡くなりました。

著者が亡くなったから、というわけではないでしょうが、概ね書評はとても好意的です。まず、カンボジア系移民の話というのが今まであまりなかったこと(私もはじめてです!)。そして、特筆すべきは(最近の私のテーマでもある)世代を超えたトラウマでしょう。クメール人コミュニティーでは、クメール・ルージュによる虐殺は人の口にのぼることはないそうです。やはり、あれだけの人が亡くなったのだから、と合点がいきます。その反面、子どもたち世代がダダをこねると、それが単なるわがままに思える親世代は「虐殺があったときに氷なんて手に入らなかったんだぞ!」と言うふうに使うようです。これは、「昔は。。。。」とか、「貧しい国では。。。」と、言ったレトリックと同じ効果を持つ(あるいは効果のない)ものだと思いますが、そこで虐殺が出るとは。。。これは、クメール人コミュニティーならでは、でしょう。

移民コミュニティーにありがちな親世代と子供世代の軋轢。アメリカ人になりたい子供世代、それでもなおかつ引きずる親世代の価値観。そのせめぎあいは、移民家族でなくとも共感できるでしょうが、移民家族では虫眼鏡で拡大したように、ありありと見えるもののようです。この本は、そうしたどの家庭にもある世代間の軋轢という普遍性と、移民コミュニティー、あるいはクメール・コミュニティーの独自性のバランスが素晴らしいのです。

自分は親戚の誰かの生まれ変わりだと言われてきて、なんとなく自分もその亡霊と二人三脚で生きているような感覚。これは日本でもあるかもしれません。先に亡くなった兄弟の生まれ変わり、あるいはおじ・おばなど。それは、うっとおしくもあり、心強くもある。そうした心の機微がさらっと書かれています。押し付けがましくなく、ことさら移民の子供としての難しさ(アメリカ文化に適応しなければならない)を強調するわけでもありません。

でも、自分の生きづらさ、そして人生の愛おしさを同時に感じられる本でした。

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