死について
最近、死(生)と向き合う機会が増えています。自分は今こうして生きているので、もちろん間接的にですが。
生と死は隣り合わせと言いますよね。
最近読んだ「クスノキの女神」と「エンド・オブ・ライフ」や、今さっき見終わった「12人の死にたい子どもたち」を通して、かつて2回自殺未遂を図った時よりも、死を身近に感じています。
交通事故で九死に一生した時の次くらい、死と向き合う時間がここ最近長かったです。かといって、希死念慮が来ているわけではありません。新興宗教に目覚めたわけでもありません。強いて言うなら哲学ですかね?
死という物差しで自分の(人)生を捉えるというか、振り返った時に、最期に周囲に笑顔で見送ってもらえるのか?いつその時がきても後悔しない生き方をこれまでしてきたのか?なんて考えてしまいます。
日付が変わってしまいましたので昨日のことですが、友人が初めて母になりました。身近に新たな命が生まれたことを受けて、不思議なことに、より死について考えるようになりました。
これからの時代を生きていく子どもたちは、今の世界で生きていくことに幸せを感じることが出来るのか?また新たな命のバトンを次に繋いでいきたいと思うのだろうか、とふと思います。
先日「もしタイムマシンがあったら、過去か未来どちらに行きたいですか?」と、問われました。私は未来を選びました。これからの子どもたち、孫たち、そのまた子どもたちが、幸せかどうか直接会って尋ねてみたいからです。
10年も経っていませんが、かつて自殺未遂をした人が、何年後かに未来のことを憂いるくらいに生に執着しているだろうと一体誰が予想できたことでしょう?
人によって生の奇跡を感じ取れるのが、過去・祖先との繋がりからか、未来・子孫との繋がりからか、あるいは今の横の繋がりからか、異なると思います。あるいは、すべての時間を通して生死と向き合うものなのかもしれませんね。
私は、、、親友の自殺、自身の2度の自殺未遂、交通事故での生還、双極性障害による希死念慮、周囲のベビーブーム、祖父母の死、本や映画を通しての学び、これらの全てを通して、今の生に感謝しています。
今の私に命のバトンを繋いでくれた祖先にも感謝しています。そして、今後私が関わるであろう子どもたち。自分のお腹を痛めて生まれてくるだろう子だけでなく、私が作ろうとしている未来の児童養護施設の子どもたちにも感謝しています。
両者に、生きる希望を与えてくれて、「ありがとう😊」と言いたいです。
X(旧Twitter)で、日々死にたいと願っている多くの人たちにも、死と向き合う時間を是非たくさん取ってほしいと思います。悩みすぎてハゲるんじゃないかってくらいに、(生)死と向き合ってほしいと思っています。私は彼らが生死のどちらを選んでも、悩み抜いた結果なら、それで良いんじゃないかと思います。
私は今たまたま生きてるだけ。何度も何年も、物心ついてからずっと死と向き合ってきました。その結果たどり着いた答えが、死ぬ直前まで精一杯生きることです。大事な人が死ぬのには耐えられないから、彼が死ぬ直前に死にたいです、もし死のタイミングを選べるものなら。
でもその前にもう少し、やりたい事があるので、これが間違っても遺書にならないように、細心の注意を払って毎日細々と生きていこうと思います、彼と一緒に。
今年中に、児童養護施設かそれに似た何かの案を練って、来年から徐々に実行に移していきたいと思っています。私のように、長年死と向き合ってきた子どもたちが、たとえ最終的に自死を選んでも、その1秒前までは幸せだったと思えるような思い出を一緒に作っていきたいからです。
そんな夢物語みたいな甘ったるいことを言うなと言われそうですが、夢を見る事は罪には問われません。そして、それをくだらない理由で実行に移すことも。
だったら、悪夢じゃなくて良い夢を見たいです。私は自力で眠る事ができません。今も眠剤を飲んでいないので全く眠くありません。またいつもの不安との戦いの時間に押しつぶされそうになって、このノートを書こうと思いました。
あなたなら夢を形にできる!って、特に言って欲しいわけではありません。
ただ、こんなくだらない理由と夢だけでも、前向きに生きていこうとしてる人もいるんだなぁって、知って欲しかっただけです。かつて死を待ち望んでいた、病気の淵に絶望しか見えなかった私が、なんやかんや紆余曲折を経て、生きたいと思った理由を述べたかったのです。
この思いがちゃんと伝わるかな?そんな不安を消し去るために、良い夢を見るために、そろそろ眠剤を投入しようと思います。
こんな長文を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました😊おやすみなさい💤
生と死はいつも隣り合わせですよ、気をつけましょうね、お互いに。
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