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深淵に触れる楽しみ:天狗岩とニーチェの哲学

もう、30代の頃の想い出である。

週末の朝、愛車のパジェロミニにウェットスーツとマスク、フィン、そしてタオルを積み込む。家から車で5分ほど走れば、見慣れた岬に到着する。風に揺れる草木の香りが、これから始まる冒険を告げているようだ。

エンジンを切り、視線の先に広がる海を眺める。今日も波が穏やかだ。足元の砂を感じながら、道具を手にして歩き出す。

海に飛び込む瞬間が、何よりも好きだ。ウェットスーツ越しに感じる冷たい水の感触が心地よく、まるで身体が浄化されていくような気分になる。海に入るとまずフィンを装着し、シュノーケルとマスクをつける。これで準備は整った。少しずつ沖に向かって泳ぎ始める。

ゴーグル越しに見えるのは、岩陰から現れたルリスズメダイやミツボシスズメ、色とりどりのチョウチョウウオ達、そして面長のユーモラスなモンガラハギが顔を覗かせる。彼らは好奇心旺盛で、こちらの様子をうかがいながら通り過ぎていく。時にはバラクーダがこちらをみつめていることもあるがおかまいなしである。

バラクーダ(和名:オニカマス)Wikipediaより

水深5mに達すると、陽の光が揺らめく帯となり、透き通る水をきらめきで満たす。白い砂の海底は穏やかな光を受け、波に合わせて静かに輝く。そこは時間が溶け込むような、静寂と光の交差する世界がある。

見事なリーフ・ノール Reef Knoll  (岩やサンゴが成長して小さな山や丘のようになった部分)が座しており、その頂きには40センチはあろうかと思うヒメシャコガイがあんぐりと口を開け、メタリックグリーンやパープルの鮮やかな色の外套膜使って光合成を行っている。その静かな営みを眺めていると、海の生命力に胸が打たれる。

しばらく泳ぐと、突然目の前に浅瀬(リーフ)が現れる。そこには色とりどりのミドリイシが咲き乱れている。その姿は花畑のようである。日光をたっぷり浴びたミドリイシ。

テーブルサンゴとミドリイシ。両方とも澄んだ海にしか生息できない。


このミドリイシたちは、水の透明度が高く、澄み切った環境でしか生きられない。
この場所が、いかに清らかで豊かな海なのかを教えてくれる。冷たい外洋からの水が流れ込んでいる証だ。呼吸を整えながら、その美しさに見入ってしまう。

やがて視界に天狗岩が見えてくる。その周囲には白波が立ち、リーフの縁にはハナダイが群れを成して泳いでいる。その先にはドロップオフ、すなわち海底が突然落ち込む場所がある。

深さ40–50メートルはあろうか。底は暗く、目を凝らしても見えない。ふいに視線を感じると水面近くにはロウニンアジなどの大型魚やフリスビーのようなツバメウオの群れがゆったりと泳ぎ、岩陰にはゴシキエビがひっそりと潜んでいる。

ドロップオフには光も届かない。


その深淵に目を向けたとき、思わず飲み込まれそうになる感覚に襲われる。深海の闇は自然そのものの神秘であり、同時に自分の中にある未知の部分を映し出す鏡のようだ。ニーチェの言葉が頭をよぎる。



「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」。

ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」より



「深淵とは自然そのものか、それとも自分自身なのか…」。

その問いに思いを巡らせているうちに、満ち潮の流れが訪れる。そろそろ帰る時だ。潮に身を任せながら泳ぎ戻る途中、背中に夕陽を浴びる。波間に映る黄金色の光が、海全体を優しく包み込んでいる。

足が岩場に触れると、途端に重力の存在を思い知らされる。水中では軽やかだった身体が、一気に地上の重さを取り戻す。日常では、こんなにも無理な体勢をしていたのかと気づかされる瞬間だ。しかしその重さすら、再生の儀式の一部のように思える。

陸に上がると、タオルで髪を軽く拭くだけで、あとは自然の風が肌を乾かしてくれる。そのままウェットスーツの上半身をはだけたまま車に戻り、エンジンをかける。窓を少し開けると、潮の香りが車内に漂う。

パジェロミニを走らせながら、今日見た光景を思い返す。

深淵を恐れるだけではなく、向き合い、楽しむことで自分の中にある新たな一面に気づく。それが、私にとっての週末の楽しみであり、再生のひとときなのだ。

自宅に戻る頃には、心も身体も満たされている。


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