教師が不登校の生徒に悩んでいるときに読んでほしい本④「ゆっくり休ませる」 の本当の意味を知りたくありませんか?
ゆっくり休ませる の本当の意味を知りたくありませんか?
不登校そのものの話に入っていきます。不登校に関するユーチューブ動画や本などを読んでいますと、「ゆっくり休ませる。」という言葉が何回も出てきますよね。私は当初、その「ゆっくり休ませる。」の意味が分からなかったです。風邪を引いて熱を出しているわけでもない、体力的に疲労があるわけでもないのに、一週間経ち、一ヶ月経ち、それでも家で動画を観ているだけの状態で、これ以上休んだところで何が回復するのだろうか、と思っていました。
また、その次によく出てくる言葉である「エネルギーを貯める。」とは、どういう意味なのかもよく分からなかったです。人間の欲求の階層の中での安心欲求を満たすとは、どういう意味なのだろう、親から見れば、部屋にいたら自分に害を及ぼすようなものは無いわけで、安心かつ安全ではないのか。一体いつまで待てば、それが満たされるのだろうと焦る心が次々に湧いてくるのでした。
これら「ゆっくり休ませる。」「エネルギーを貯める。」の二つの言葉の意味は、不登校が始まってだいぶ経ってから不登校とはあまり関係のない分野の本を読んでいたときに分かったのでした。その本とは、『精神科医が見つけた3つの幸福』(著者・樺沢紫苑)でした。
この時に気付いた考え方は、今でも役立っていますし、考え方の割と中心にあります。
その考え方とは、人間の幸せには2種類あるということです。この本では、幸せを感じるときに脳内で分泌される脳内物質の違いによって、幸せには種類がある、というものです。
「自分はこうなったら幸せだ。」と人が幸せを想像するとしますと、どんな場面を想像しますか。
長年追いかけ続けた目標が現実のものになって、何かを手に入れたとき歓喜の声を上げる。そんな場面でしょうか。このような、お金、成功、達成、富、名誉、地位などを手に入れたときの幸福をドーパミン的幸福と言います。多くの方が、幸せや夢を何かの達成というイメージに重ね合わせておられるのではないでしょうか。私自身も、特にそういう傾向が強かったと感じています。
一方で、「家族みんなで、こたつに集ってテレビでも観ながらゆっくり団らんしている。」このようなイメージの幸せもありますよね。このような幸せをオキシトシン的幸福と言います。このオキシトシンとは人間関係のつながりと愛、コミュニティへの所属などで感じられる幸福だそうです。がんばらなくても得られる幸福、それがオキシトシン的幸福なのです。いわゆる「まったりする。」がなぜか、リラックスできて楽しい気分になるのは、オキシトシンが分泌されて幸せを感じることができるからです。
また、この本は3つの幸福を紹介していて、もう一つの幸福は、健康による幸せであり、セロトニン的幸福と言います。いずれにせよ、名著だと思いますし、自分の考え方が大きく変わった本でもあります。詳しく知りたい方は、ぜひ一読をおすすめします。キンドルの電子書籍版、オーディブル版ともに出版されています。
以上のことから、「ゆっくり休ませる。」とは、脳内にオキシトシンをたっぷり分泌させること、だったのです。恐怖を感じるとこのオキシトシンは分泌されません。心の底から人との信頼できる絆や安心を感じられて、多くのオキシトシンが脳内に分泌され、幸せと安心感がバケツの中いっぱいの水のように貯められた時、人は安心して外に出ることができるのではないか、当時の私はそう思いました。そして、それこそが「ゆっくり休ませる。」の本当の意味であり、オキシトシン的幸福により、学校に行っている間の長期に渡ってストレスにさらされていた心を癒していく期間を「エネルギーを貯める。」と表現されているのではないでしょうか。オキシトシンいっぱいで心から元気が湧き出るような状態を「エネルギーが貯まった。」と言っているのでしょう。これらすべてはオキシトシン的幸福を、別の言葉で表していただけだったのです。
そしてこのオキシトシンは、生まれつきこのオキシトシンを感じる受容体が少ない人がいるらしく、そのような体質の人は安心を感じにくいことがあるようです。このような差異によって、同じストレスや痛みであっても、これに強い人と敏感な人がいたり、個々の性格の一要素として影響していくのでしょう。
私自身は、この2種類の幸せの存在に気付いた時は、驚愕でした。なぜなら、自身の今までの人生は、2種類の幸せのうち、オキシトシン的幸福ではなく、目標を達成したときに得られるドーパミン的幸福をひたすら追い求めてきた生き方であったことに気付いたからです。
私は高校生の頃から、自己啓発の本が好きでした。何かを達成するための情熱のようなものがこれらの本にはありました。大学受験のための勉強は嫌いだったものの、自分が興味をもった分野で目標や理想を自ら設定し、それをいつの日か達成するその日まで努力を続けていくこと、そのこと自体に幸せを感じていました。いつか何かを達成すること、いつか自分の能力が一定の水準に達して人から賞賛されること、これがこの社会の中での幸せというものだ、と思っていたのでした。
だから、スポーツにしろ、勉強にしろ、達成型の幸せを叶える手段となっていたのかもしれません。それ自体の楽しさを大切にするというより、むしろその結果によって達成されるものを重視するようになっていたのでしょう。
私自身は、有名大学を出たわけでもなく受験競争をむしろ否定し、好きな教科の勉強ばかりしてきたような人間でした。それゆえに、自分の教育は自分でしなければ、自分の人生は幸せになれない、というような切羽詰まった緊張感を常に抱えていました。そして、教師という職業柄、勉強してきたことが子どもたちの役に立つという達成感を数多く味わうことができました。
スポーツも同じようなもので、特に強い学校出身でもなかった私は、自分で練習する、自分で体を鍛える、ということが染み込んでおり、それゆえに社会人のチームでプレーする機会にも恵まれ、自らの努力の結果で得られた達成感も多くありました。
そういう経験と生き方は、自分自身に向いている場合はいいのかもしれません。ただそれが、子育てにおいて我が子に向いてしまうのが良くなかったのかもしれません。
自分の生き方で得た達成感と喜びを子どもにも得させたいと、同じような努力を子どもに強いてしまっていたのでした。必然的に子どもに対して過干渉になり、「こうしろ、ああしろ。」とトレーニング内容に対しての指示が多くなっていたと思います。家での自主トレをやらせているときもありました。ときに試合の内容が悪かったときなどは、子どもの努力不足を指摘して怒ることもあったのです。達成感を得られれば、努力を継続的に積み上げられるような子どもになる、と信じて。
後に、不登校についての色々な本を読み、不登校の親の共通点というものが、やはり存在するのだということを知りました。著者によって細部は異なるかもしれませんが、あらかた共通しているのは、「過保護・過干渉」でした。
子どもに「指示をしすぎること」のような過干渉、親が「社会の評価を気にしすぎるタイプ」に多いらしいです。こうしろ、ああしろ、と子どもの思考を待つことなく、先回りして指示してしまう。先回りして言うから、それが過保護につながる。それらは、子どもが自分で判断して、自立していく機会を奪ってしまうそうです。
これら以外にも様々な著者が言う不登校の親の共通点は、自分にまさにぴったりと当てはまっており、ショックを受けました。自分のせいだったんだ、という思いにしばらく苦しみました。そのことを知った日から、自分が十年以上続けてきた絵を描く趣味をやめてしまいました。
以上のことから私とその家族は、先ほどのオキシトシン的幸福である「ゆっくりとした幸せ」「何も達成しなくてもいい幸せ」をないがしろにしていた、ということに初めて気付かされたのでした。
「家庭は、みんなでゆっくりするところ」、という意味がそのとき初めて分かったのです。こいうことは、普通の母親なら当たり前のように大事にされているのかもしれません。私自身は、ゆっくりするなら何かの練習をするなりして後の達成感を得られるようなことに時間を使いたい、というような人間でしたので、このことが分かっていなかったのです。たとえば、私のように「映画を観るならランニングマシーンで、走りながら観ないと時間がもったいない」、などと多くの方は思わないのです。
家庭でゆっくり過ごすことは、無駄な時間ではありません。家族の団欒や休息によって、人間にとって必要な安心欲求が満たされます。そのことを科学的に私に根拠をもって分かりやすく説明してくれたのが、「オキシトシン的幸福」という考え方だったのです。これも幸せの一種であると、そして達成型の幸せは一時のもので、幸福感の継続時間が短く、達成されたとしてもすぐ次の達成に向けて自らに努力を強いることになることも、この本から知りました。一方で、オキシトシン的幸福の方は継続時間が長いそうです。幸せという言葉が、さまざまな書籍やメディアで使用される場合、「すぐそこにある。」「今すぐにでも感じられる。」などという使い方がされる場合が、そういえばあったような気がします。それらは、オキシトシン的幸福のことを言っていたのではないでしょうか。遠くの幸せ、つまり達成型の幸せよりも、身近にある幸せ、つまりオキシトシン的幸福に目を向けようということを、表現を変えて色々なメディアや作者が我々に伝えていたのではないでしょうか。
このような経過で、私自身は「ゆっくり休む。」=オキシトシン的幸福という説明で、本当に納得したのです。そして、こういう説明がないと、「ゆっくり休む。」の意味が分からない私自身は、相当に心理的にゆっくり休めないタイプの人間であった、ということも分かったのです。苦笑しかありません。