手紙 | むかしの友禅や
興味のあるテーマを選ぶと、それに沿った手紙が届く。
前回は「むかしの駅長」だった。
今回は「むかしの友禅や」にしてみた。
そして、今日こんな手紙が届いた。
私の名前は達治です。年は四十七です。
半農半漁の貧しい村で、六番目の子に生まれました。高等小学校まで出してもらって、京都の染呉服店に丁稚奉公にやられました。出入りの刺繍屋に子供がなかったので、私を養子にしてくれました。
私は二十五才で独立して、友禅やをはじめましたが、その年の暮れ、太平洋戦争がはじまってしまいました。
企業整備で廃業させられて、終戦の放送をきいたときは、福知山の航空機工場の徴用工でした。結婚して、男の子と女の子が生まれました。
終戦から五年間、私はヤミ屋をやって、その日その日を、やっと生きてきました。
友禅やの資本は、第一にカンと経験、そして、型紙と、染め上がった生地を天日に干すための張り板です。
五年間のヤミ屋の足を洗って、やっとのおもいで、二階借りながら、ともかくもう一度友禅やを再開したとき私は、この張り板をたった一枚しか持っていませんでした。
板は巾四十五センチ、長さ六メートル八十センチ。とても借りた二階には入らないので、それを半分に切って、まがりなりにも商売をはじめました。
その日から今日までざっと十三年の年月が流れました。
私は、いま二階建て四十坪の家に住み、八十坪の工場をもち、板はもちろん半分に切ることもなく、その数は百をこえています。
この十三年をつらぬいてきたものは意地と、突っぱりです。うしろはいつも断崖で、進まなければ、転落する。しゃにむに働きました。
ひとくちに友禅や、といっても、いろいろあります。私のやっているのは、訪問着、裾模様といったものに限られ、それも、白生地は問屋から預かってきて、それを染め上げたら問屋に納める、つまり染加工だけの商売です。
そのために、いろんな手がいります。
まず図案をきめて、それを描かせる画工、それを何十枚もの型紙にほり上げる型紙や、白生地の巾出しをたのむ湯のしや。自分の工場で染めるまでにざっとこれだけの手がいります。
図案によっては、金銀の加工もあるし、ぬいとりもあり、みんな別の商売です。
図案ひと柄十万円、それで注文がとれなかったら、まるまるの損、図案の良し悪しで、大勢は決するようなものです。自分もよし、問屋もいけるとふんだ柄が、百貨店や呉服屋の店先でいっこうに動かぬこともあれば、枯木も山の賑わいのつもりで染めた柄が、追注また追注で、嬉しいきりきり舞いをさせられることもあります。
それに納期です。湯のしや、型紙や、その他の加工や、みなバラバラの他人です。それをひとつの歩調に合わせてゆく苦労は、やったことのない人間にはわからないでしょう。
かたく約束したものが、いざとなると、よその仕事に割り込まれて、すっぽかされる。預けた生地が、仕事の不手際で、何十反そっくりダメにされる。数え立てたらキリはないです。私は、問屋から何日と日限をきられたら、どんなことをしても、その夜のうちに、夜の明けぬうちに、閉まった問屋の戸をたたいて、納めてきました。
とにかく、いろんなことがありました。いろんなことが重なり合い、混ざり合い、ぶつかり合って、おそいかかってきました。
そんなとき、雅楽にさそわれて、ひちりきを吹くことになりました。週一回、より合って練習があります。すこしずつ吹けるようになると、別の楽しみが生まれてくるのです。
いま、打ちこんでいる道楽は、浄るりです。それまでは麻雀でしたが、奥さんの泣きっ面をみているうちに、気が変わりました。
この手紙は、未来に届くと聞いています。
未来は、どんな着物になっていますか?
読んでくださり、ありがとうございます。
この「手紙」シリーズは、雑誌『暮しの手帖』の昔の記事を、手紙形式にして書いています。