どなたか【ショートストーリー】
朝の電車は混んでいる。同じ車両に同じ顔ぶれ。お互いに話すこともない。
ぶつかった時だけ「あ、すみません」と声を発するぐらい。
これからも関わることはないだろう。明美は目を閉じて、心を無にする…
車両の中が、ざわざわしている。人々の視線の先を見ると、そこだけ輪ができていた。二十代の女性が倒れているようだ。
「より子、より子、大丈夫か」
連れの男が肩を抱いて、名前を呼んでいる。
「どなたか、詩人はいらっしゃいませんか!」
その男が叫んだ。
いや、そこは"お医者さん"では?
「お願いします! どなたか詩を! より子には詩が必要なんです!」
さっきとは違う種類のざわめきが生じた。詩? 詩だって…
となりのおじさんがカバンのなかを掻き回す。詩の本を持っているのか。
家に置いてきたようだ。
おじさんは記憶を頼りに、進み出た。
「では、わしから…
脚にまかせー、心も軽くー、私は大道を、闊歩するー」
「カーン!」
付き添いの男が叫んだ。
ウォルト・ホイットマンの詩を朗誦したおじさんは、鐘ひとつに、うなだれて戻った。
次は、中間管理職っぽい男だ。
「私はさまよったー、私はさまよった。谷や丘の上を…」
ワーズワース、いいね。
「カーン!」
物足りない顔で、後ろへ下がる。
次は二十代の女性だ。
「夜が明ける時、私たちは自分に問いかける。この果てしない影のなか、一体どこに光があるのかと…」
おおっ、バイデン大統領就任詩人アマンダ・ゴーマンと来た。
「カーン、キーン!」
ならば、と三十代ドレッドヘアのお姉さんが
「私の人生の使命は、単に生き残ることではなく、情熱と…」
「カーン!」
黒人女性マヤ・アンジェロウも残念。
四十代の人が
「遊ぼうっていうと、遊ぼうっていう…」
「カーン」
金子みすゞもお気に召さない。
どれも素敵なポエムだけれど。そろそろ私の出番ね。明美が前に出た。
明美は、人々の顔を見回したあと、語りだした。
「彼女は、噴水の横で『ハグしませんか』と書いたボードを立てた。ひとりの男子高校生が………」
朗誦が終わった。無名の詩人か。
「タラリラタラリラ、アンポンターン!」
合格だ。全員が拍手する。
倒れていた女性が付添いの男をはね飛ばし、立ち上がった。
「そ、それです! ここ何年かで染みついた、心のディスタンスを外したい! 握手したい。皆と、触れあいたい…」
それを聞いて、人々も泣いた。
明美は、彼女を抱きしめた。
(了)
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