第2話【家族だから愛したんじゃなくて...】〜ネタバレが厚みになる物語
「まだ昼ご飯を食べてない」
知的障害のある私の息子のことばで我に返った。
そういえば・・・
我が家では今日は姉弟とも運動会の代休日で、病院に入り浸っていた。午前中3時間、午後1時間も待合室に座っているのは修行である。その日は、岸田奈美さん原作のドラマ「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」がNHKオンデマンドで配信される日だというのに。BS放送が見られない私にとっては一大事である。
ようやく帰宅し、かぞかぞに全集中。家族が音を立てようものなら激烈に注意していた。それが、Macを開いて第2話を視聴して10分ほど経過したことろ、冒頭の言葉が発せられた。奇しくもドラマでは草太が、忘れてはいけないと電車の切符を預かったり、網棚の荷物を思い出させてくれたりしていて、私は感動していた。うちの子もしっかりしてきたのと同じだなあ。
それはさておき、息子が昼食を食べていないのは事実。知的障害がありながら自分の窮状を訴える姿にただただ誤るしかなかった。ごめん、赤べこ状態である。
言い訳させてもらえば、息子は、休日で朝食がほぼ昼食の時刻で、病院に行ってくれたご褒美にコンビニでおやつを買い、預かってくれた祖母宅でクッキー作りを楽しんでいた。それでも、確かに昼食は食べていない。本当に申し訳ない。すぐに即席の焼きそばを提供した。なんて毒親なのだろう。
さて、第2話である(おいおい)。話の中にはnoteにあった有名エピソードがふんだんに盛り込まれている。このままいっても最終話まで大丈夫かしら。陳腐な表現だが、涙と笑いの連続である(語彙力)。しかし、ネタバレはマイナスにはならない。むしろ話の奥行きが増して分厚いのである。
ひとつだけ象徴的なシーンを挙げる。
死にたいという母に、「おかあさん死んでもいいよ」というシーンである。もちろんnoteのままにドラマは製作されていないが、象徴的な名シーンである。原作のエッセンスが凝縮されているのだ。しかし、シーンはパスタを食べながら撮影された。原作noteでは、この会話がカルボナーラを食べている現場で行われていたとは書かれていないのだ。これを私が知ったのは、岸田奈美さんの取材記事かYouTubeだった気がする。
新しい情報の追加が行われた。つまり、このドラマではじめて岸田さんの話を知る人も、noteを読んで知っている人も、追っかけで常に媒体をウォッチしている人もあらゆる層が楽しめるのである。すばらしい。
遡れば、世の和歌も戯曲も音楽も歌舞伎もすべて完全オリジナルではない。繰り返し上演されネタバレしていてもその価値は毀損されないのだ。ネタバレが厚みを提供する文化は、かぞかぞだけではないのだ。
冒頭で草太が七実以上のしっかり者である描写も、noteで繰り返されてきたものである。そして、すべてのネタバレによる既視感がラストへの盛り上がりにつながっていく。すごいドラマに出会ってしまった。一度見ただけでは消化不良である。今からもう一度見よう。そして気付いたことはこのnoteに追記する。それがネタバレが最大限に活用されているドラマだからこそ、許される行為だと私は信じている。