
メーテルの隠せない想いが迫ってくるラストシーン。劇場版 銀河鉄道999とさよなら〜を40年ぶりに見た。
「さようなら、私の鉄郎」
40年ぶりに見た銀河鉄道999の劇場版シリーズ2作目「さよなら銀河鉄道999」のラストシーン。鉄郎とメーテルが機械化世界の象徴である女王プロメシュームを倒した後、メーテルの生まれ故郷であるラーメタル星から旅立つシーンだ。999の中では鉄郎の横にメーテルはいない。一緒に乗るはずだったのだが、メーテルの同志である女海賊エメラルダスに止められたのだ。駅のホームで見送るメーテルが、飛び立つ列車を見上げて独白する台詞がこれだ。
こんな赤裸々な想いを吐露してよいものだろうか。松本零士さんの代表作「銀河鉄道999」は少年誌に掲載されていたとはいえ、TVアニメ版は小学生向けにカスタマイズされている。さらに、TVアニメ版・コミック版のいずれでも、鉄郎とメーテルの恋はクローズアップされていない。それまで母親としての役割が大きかったのは、母を表す意味のメーテルの語源からもわかる。母の役割になれていたファンも、この台詞を聞いて良く言ってくれた!と歓喜しただろう。映画の一作目からもどかしい想いをしていたファンは多かったはずだ。私も、やはりこのふたりの思いが結ばれてほしいと願っていた。
私が、松本零士さんの代表作である2つの劇場版「銀河鉄道999」(1979年公開)と「さよなら銀河鉄道999」(1981年公開)を見たのは、小学生の頃だった。父が2時間以上かけて映画館に連れて行ってくれた。家には車もあったが、なぜか国鉄のディーゼル列車で向かった。できればSLで行きたかったが当然もう走ってはいない。ディーゼル車でも、鉄郎が旅立つシーンを夢想しながら乗るのが楽しかった。父の感想は覚えていない。いまとなってはどう思ったか知る術もない。子どもだった私はというと、感想を言うと想いが壊れそうで口に出すのも控えていた。パソコン通信もSNSもない時代だったので、気軽に感想をシェアできず、アニメ雑誌やムック本を買って数少ない感想や評論に共感していた。まだビデオデッキのない我が家では、LPレコードを毎日聴いて台詞と音楽を暗記してしまうほどに。
劇場版「銀河鉄道999」は、当時大ヒットしていたTVアニメでもコミックでも物語が完結していない状態。その結末を映画で先に明かすことが話題になった。結末は衝撃的でメーテルの苦悩は痛いほど感じた。父と母・鉄郎との間で揺れるメーテルの葛藤。母を倒すという決意の実現のために背中を押す鉄郎。ファンも複雑な思いが続いていたが、大人になるにつれてこの感情は忘れてしまっていた。

当時、アニメ版とコミック版に心酔していた小学生の私にとって、映画版は不満だった。なぜ鉄郎が格好いいのか、なぜメーテルが弱々しいのか、旅の途中のエピソードが少ししか紹介されないのか。映画という媒体ゆえに、観客層や時間の尺を考えれば納得するものの、原作の世界観を壊されたと思っていた。それでもふたりの別れのシーンは名残惜しくて、映画館では席を立ちたくなかった。メーテルがいなくなっても見る人の心の中で永遠に生き続けるのはわかるが、今後新しい旅のエピソードが見られないのが寂しかったのである。
ところが、当時感じていた不満を、今は受け入れられたのではある。今回2つの劇場版を見たのは、松本先生の逝去の報を受けたからだった。少年期には受け入れられなかった物語を、なぜ40年経つとすんなり受け入れられたのか。アニメ版へのこだわりが薄くなったのもあるだろうが、もっとほかに理由がある気がする。
鉄郎とメーテルのそれぞれ置かれた立場に対する感情の機微。そして二人の間の愛情。少年期にも名シーンと感じていた映像と音楽の重み。別れのシーンの切なさと余韻。ようやく実感として腹落ちする年齢になったからではないかと思う。少年期の偏ったこだわりを捨ててしまったことにより、作品全体を俯瞰できるようになったのだ。映画版の後も続いたTVアニメ版の銀河鉄道999が終了してからは、松本零士さんのほかの作品も読みあさった。彼の作品はすべてがつながっていて作品間の相互理解が進んだ。メーテルとエメラルダスが姉妹とか後付け設定も多く、整合性は破綻していることもあったが、それも御大(松本先生へのファンからの愛称)の味わいの一つと考えるのがファンの心理だ。何十年もかけて熟成され、あらためて999を見ることで受容されたのだ。

冒頭のシーンに戻る。いつも冷静で感情を押し殺しているメーテルが「私の鉄郎」というシーンには、少年時代にもうれしさを感じていた。完璧な人でも感情をあらわすことがあるのだ。このシーンが今はもっと自分事としてせまってくる。メーテルは数知れない多くの若者と旅をしてきた。多くの若者のなかでも鉄郎は特別な存在であろうことは想像に難くない。2度も母を倒すという偉業を達成することはなかなかない経験だ。記憶に残るだけではなく、一緒に暮らしたいとまで思いを募らせていた鉄郎といっしょに旅立てない思い。かなしみやさびしさ、やるせなさといった月並みな言葉では表現できない思い。何百年・何千年も時の輪を巡って旅をしてきたメーテルが、遠く時の輪の接するところ(つまり今)で出会いたいと願う鉄郎。
今後、旅をすることがあっても、鉄郎とメーテルは決して一緒にはなれない気がする。でも、時間も距離も関係ない。ふたりの思いは決して陳腐化しない。また、大ファンである私もそうだ。私は松本零士さんや多くのファンとは会ったこともないし、今後も接点はないと思うが、同じ思いを共有できた事実は残る。それこそが、この作品のテーマである青春の幻影なのだろう。合掌。
いいなと思ったら応援しよう!
