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書くことについて📝《その九》才能の有る無し
(約900字)
noteを始めてから、今、一番気持ちが落ち込んでいますが、まだ書くことが出来るから、自分でも驚いています。
人が出来ないことが出来ることを才能と呼ぶのなら、それに相当するのかと思います。
私は祖母の葬儀の前に、悲しみが大きすぎて笑顔を作ってしまった経験があります。
家は本家でたくさんの親類が集まっていました。
情の深い叔母が、私の手を握って無理矢理笑う私に言いました。
「悲しいときは、ちゃんと泣きなさい。気持ちは分かるから。今日は、人前で泣いていいんだから」
私は叔母の胸を借りて泣きました。
葬儀の前日、祖母の棺桶の隣りで眠りました。祖母と小さな頃から一緒に寝起きしていて、私はもうこの家には居なくてもいいんだと思い、一人暮らしをしようと考えた夜でした。
悲しいときには、自分の気持ちを文章にする癖があったので、その頃も詩を書いたり、散文を書いて、それをゴミ箱に入れる、という生活をしていました。
書きかけの文章やノートは悲しくなるので、毎回、とっておくことはしませんでした。
今もメモや下書きを残すことはしません。
そのときに思いつくことを自由に書いています。書いているときは、誰かが私の文章を読んで、どんな気持ちになるのかは考えません。
特定の人を想像すると、ペンが止まります。
リクエストをいただいて創作した詩のときは、いつも好き勝手に書く詩よりも多少、時間を要しました。
ご自身の文章の才能があるか無いか、
文章を書いて、それを創作することが苦にならない人が、文才がある人かと思います。
出来がいいか悪いか、の問題ではないのではないか。
自分の信じることを表現できる人。
100%表現できていれば、共感する人は現れるのではないでしょうか。
noteでスキをもらっていない文章を書いている方も、noteを読む人の中に自分の文章の良さを分かってくれない人が目を通しているだけで、他の人が読めば共感される可能性は大いにあると、私は考えます。
申し訳ないですが、面白いと思わない文章が多くのスキをもらっているので、noteの世界でスキをたくさん貰うのは、文才とは関係ないように感じます。
負け犬の遠吠えと思ってもらって結構
だって、本当にいい記事にスキがついていないんだもの。
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