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書く場所について

  (約1,000字)

noteで書くのをやめようと思った日に、他の運営会社を探していた。
無料で入場できて、投稿できて、自作の記事を販売できる場所を見つけた。

コンテストに応募しようとして、偶然、辿り着いた場所だった。

noteのように運営会社が細かくノウハウを説明しているところを探せなかった。
多分、丁寧に読めば詳細が分かるはずだが、取説を細かく読むところを見つけるのが苦手な性格が災いしてヘッダー画像を貼り付けることも出来なかった。

アカウントを作り、なんとか作品を投稿した。
他の人の作品を読みたいが、それすら理解出来ない。
劣等生ぶりを発揮して他の作品を書くことを諦めて放置していたら、一人だけフォローしてくださる方が現れた。

またまた時間をかけて、その人をフォローしたが、相変わらずやり方を理解できずに迷子。

読んでもらうためには、どこかのコミュニティに入りなさい、という指示があった。

やはり無名の物書きが読んでもらうためには、仲間を探さなければならない。

私は作品を「コレしか書かない」と決めていないため、どこに所属していいのかも判断しかねた。
コンテストは小説で応募するから小説を書くグループに所属すればいいのだが、どこに行っても読んでもらうための努力をしなければならないことに気づく。

だから、こんなに居心地が悪くなったところで、まだ書いている。

気持ちに嘘はなくても、多分、私が嘘をついているように見えるのでしょう。

心情はたえず変化していて、読んだものに左右されることは無いが「この人は、こう思っているのだろうな」と感じる。

他者に対しての気持ちのアンテナは鼻が効くのに、自分がどう思われているのかがはかれない。

踏み絵のようでも、多少、自分が思うことと違えど、スキをつけるようにした。

きっと、こんな風に考えていて欲しいんでしょ、と思ってつけたスキもある。
気持ちを偽ることをしなくてもいい場所を求めたら、それはオーディエンスが居ない場所なのでしょう。

書く人は想像力が豊かだから、皆さんの記事は面白い。

多分、私の存在が面白く映っているのだろうと思う。
人間に気持ちの物差しが付いていて、可視化できていれば楽ですね。

そんなに単純でもないし、複雑でもない。

他人を理解することは、自分を理解することで、唯一理解出来ないのは、変わっていく心。

他の人の記事を読み、ここまで曲解できるなら、もう少し機知に富んだ表現ができないものかと思うが、しょせん他人のココロのあり様(よう)はここまでか、と諦める。

本当に優しい人間って、
どんな人なんでしょうね。


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