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伊藤若冲 / メトロポリタン美術館
正当化して人を理解しなくなるとか
(約700字)
境遇に寄り添えないことが、人生を小さくまとめるということを理解したい。
私が得た知識の中で勉強になったことは、
他人を意識したり、知識を他人に伝えることが重要ではないということ。
勉強すること、知識を得るために懸命になることは大切なことではある。
それは個人が自由に選んで、
専門的な内容であれば、
そこに注目されるのは確率として狭い範囲でしか賞賛を得られないかもしれません。
例えば、3人の人がいる。
知識人である方が難解でタメになる話をした。
自分が興味のない話を延々とされても、それを
笑顔で聞いていた人がひとり。
そして、もう1人が険しい顔つきで話を傾聴。
聞き終わったその人は言う。
「だから、それが何なんですか。
わたしの人生には必要じゃない話でした。
時間を返してほしいくらいだ」
笑顔で聞いていた人が、知識を与えてくれた人を感謝していたかは知る由もない。
反応が無いことは、他の2人には良くも悪くも
感じ方を理解できない。
笑顔でいたヒトは、後からこんなことを話す。
「難しい話をされたけれど、全く分からなかったよ。聞こうと思ったけど、したり顔で質問をさせてくれる空気ではなかったから、そのまま帰ってきた」
明らかに笑顔の人は、知識をくれた人の価値を下げる。
険しい顔つきの人は、理解しようという気持ちがあるから出た言葉ではあるが、知識人に意見をしたから、他人にそれを告げることは無いかもしれない。
ひとは、自分が思うほど、心が自由ではない。
何かが起きたときの反応が、瞬間からわきあがる人もいれば、10年後にも記憶から蘇って
思い出し、感情をかみしめる可能性もある。
こうしろああしろは、エゴ。
何を思うかは、その人の自由。
それで人を傷つける理由を探すのなら、
書かないでほしい。