自分の立ち位置とか。
(約1,000字)
先日の些細な騒動をフォロワーさんはどう思ったのだろう。
私は「AI」に対する考え方は変わらない。
理解してもらえるか分からないが、それを取り入れて作られた投稿に、スキ♡を付けている。
全面的に否定している訳じゃない。
それを熱り立った思考の人間に説明するのが面倒だった。全面的には否定していなくとも、自分が「AI」にお願いして文章を作ってもらうことに抵抗がある。
もし私が小説家や、ウェブライター、詩人などの文筆業をしている人間だったなら、あんなコメントをしてきたのだろうか。
ひとは、相手をみて喧嘩を売る。
私が書く記事を執拗に読み、体調不良を理由に私に喧嘩を売った人間は、相互フォローのときからスクショをよく撮るようだった。
同じ言葉を使うのも、私が書く記事に対して、それに呼応する内容の記事を書いていた。
多分、張り合いたかったのは、恋が原動力だったのだと推測できる。
私が小説などの物語を頻繁に書き始めてから、その記事の出し方に変化が出た。
悔しい気持ちが自分を奮い立たせるモチベーションになる人と、書く能力の限界を感じて嫉妬する人と、自分の出来る範囲で楽しむことを模索する人がいる。
ネタが無いという言葉は「note」でも「スタエフ」でも聞く。
書きたいことが尽きない人が、珍しいのだろう。
今日は「書かない日にしてみよう」と決め、一日を過ごしてみた。(半日しか持たなかったけれど)
物事には多面的にモノを判断する目が必要で、これは素晴らしいが私は取り入れなくていいという尺度がある。
捨てた方の選択肢が、必ず功を奏するとは限らない。
色々な形態で言葉を書く私には、誰とは書けないが、自分をプロデュースする方法が間違っているのではないかと思われる人もいる。
だから、それを察したクリエイターさんは、あっさり私を見限る。私が違うと思い発言するのを感じとるのだろう。
ある程度の年齢になると、自分がやりたいことに邁進していきたいという気持ちが定着するから、「聞く耳を持とう」というハードルはあがる。
書くことが三流の私にとって、noteの配信場所は最後の砦で、それを邪魔する人を憎んだ時期があった。
多分、彼は気付いていたんじゃないかと思う。
自分の身近な人が精神病で苦しみ、同じ病を持つひとを放っておけないのだろう。
先程、暗い夜道を遠くまで歩いた。
初めて、歩きながらアイスを食べながら帰ってきた。
途中にすれ違う自転車があって、口元を手で隠してから、また泣いたりした。
こんな風に育ててもらえて良かったと、また家族を想った。