なぜかnoteで書いていた
(約1,200字)
書く理由なんてない。
書かない理由もない。
幼かった頃、頭の中で哲学的な思考を繰り返して過ごした。
大人の考えが、なんて浅はかなんだろうと心の中で「おかしいよね」と自分自身に問いかけた。
老子も孔子も、ソクラテスもプラトンも知らなかったころ。
勉強は自らやりたい方ではなく、成績は一夜漬けが効くようなテストしか得意ではなかった。
学校の推薦図書は苦手。
新学年が始まる日に図書室の本が返却し忘れて、家にナンバリングしてある背表紙に慌てて、「返さなかった理由」を必死に考えた。
読むのも書くのも好きだった。小学生の終わりくらいから「ヘンテコな文章」を書き始めた。
その頃は、詩や短歌を作った。
実家に帰って、昔、使っていたノートを見つけた。おそらく、20代の私が雑誌や新聞公募に投稿していた文章だ。
ただ夢だけを見ていた時期の。
おじいちゃんは庭の大木の木陰で本を読む人だった。
私が中学生時代は、病気で何度も入退院を繰り返していた。
おばあちゃんの枕元には、『万葉集』と辞書が置いてあった。
夜はボロボロの書き込みがいっぱいの本を繰り返し読んでいた。
おじいちゃんが小説を書いていたことは、私が社会人になって知った。
どんな物語を書いていたかは知らない。
その頃、私も小説のような物語を書くようになった。
何度も何度も書いては捨てて、有名な著作を読むと、自分が書いたものが恥ずかしくて仕方がなかった。
本を書く仕事に就きたかった。
人間関係に躓いてばかりの日常に嫌気がさしていた。
noteは色々なジャンルで文章を書く場所と知って、記事を書くことにした。
私の周りの人は、SNSを信用していないから、noteの話を出来なかった。
私の大切な人たちの懸念することが起こった。案の定、noteの心ない人の嫌がらせに遭った。
書く場所に選んで、初めて書いた記事を買ってもらい、人生に光が差した気がした。
小説を書くのに支障が出たため、この連作の短編小説を機に、小説を無料記事に投稿するのをやめた。
書く場所を簡単に手に入れて、書いたり読んだりする仲間は増やすことができる。
noteでなくてもよかっただろう。
自分発信を表現する場所を、どのSNSにしたって構わなかっただろう。
ひととして問題のある人物は、リアルでもSNSでも存在する。
私はリアルと同じ感覚で友達を得られたと思っている。それも、プライベートを詳しく知らなくても何人も存在する。
だから、家族に有料記事で小説を書いている話をした。
大事な思考は、そのまま。
子どもの頃の私はそのままで、noteがつまらない邪魔をされずに沢山の人が書いて読まれるように考えながら記事を書いている。
人気がある無しは、スキの数じゃないの。
フォローの数でもない。
この人の記事を読みたいって、私が思ってスキをつけた人は、最高のクリエイターだと信じている。