【考察】真内劇場1~5話とはなんだったのか
真内拓実待望のシナリオイベント「真内劇場」が公開されました。真内拓実史上初のシナリオイベントであり、長さ・シナリオ・演出面ともに真内拓実最高レベルの企画になっています。
マナマナチャンネル時点で「異常なまでの初速と絶対量」で視聴者の度肝を抜いた真内拓実と、「行動力はピカイチだが、時間を割くコンテンツとしての魅力がない」ため、先が見えない真内拓実でしたが、今回は「真内劇場」という言葉を引っ提げてやってきました。
真内拓実のキャチコピーは「日々ある笑顔のベネフィック・レプリカ」「1600mを笑顔にする、速度(S)を持った全力投球」とあるように、お売り化された日常に対する余暇的なエンターテインメントの提供、そのための自己犠牲を伴う全力のアクト、がテーマでしょうか。
自分は真内拓実について、未履修な部分も多い状態ですが、真内劇場を見て少しまとめてみました。
1~5話まで読むのに1~5分ほどかかりました。結論から言うと、真内劇場1~5話は「我々と真内拓実とが同じ空間に立つ(真内劇場についての共通認識)」というあたりの理解をする話だったのかなと思いました。
まだお読みでない方は、まず真内劇場:
をご覧されたし。
その後どうしても感想を必要とする方、以下をどうぞ。
それでは各話ごとに記載しますので、よろしくお願いします。
■1話 「開幕」 (オープニング)
真内劇場の簡単な説明が入る。
キーワードは「ストーリー性」である。これは覚えておいてほしい。
さて写真の方はというと、
ネクタイを締める真内。
その背景はこれから劇場に入る前の準備であった。
ネクタイを襟に通しただけの1枚と、結びの最後の締めを行う1枚と2枚かけて、ネクタイ締めのシーン作りとしている。我々とは一切目が合わず、黙々とネクタイを結ぶ真内。ここでは開演前からして、我々視聴者と真内拓実は劇運営上対等ではないことを示している。真内が動き、視聴者は見るだけ、という当たり前のようで、言葉にしないような、”劇”というものの認識を2/4という時間の間をもってして痛感させられる。
この間、キャプションでは司会者なる人物と真内との会話がつづられる。ここでもやはり、写真の中の真内の目に視聴者が映らないことを意識せざるを得ない。「準備はよろしいですか?」と真内に尋ねる司会者に対し、「皆さんよろしいですか??」と、質問の意図をはき違え、さも視聴者を意識しているかのようなすっとぼけの寸劇が入るが、どこか無機質である。写真2枚分視聴者を放っておいたことが布石となっているが故に、「皆さん」という部分から視聴者が自己を認識できないためだ。
真内が見ているのはあくまで、写真の中の真内が想定し続けている、漠然とした「客」という輪郭の無い壁当ての壁なのだ。
後半2枚、初めて真内が”カメラ”目線になる。
幕を開ける直前、幕に手をかけている構図が2枚と続き、視聴者は「じらされている」と感じワクワクする。
この後、幕が開き、視聴者を意識しない、ライブ感と対極の真内の笑いが見られると期待する1日となる。
という表向きの裏に、
1話時点で我々は劇場の中にすら入れていない
という認識を忘れているがために、視聴者と真内との溝は出来始める。
■2話 「充電」
勤勉な日本人を労う真内。
日本人社会は、やや生産性を求めすぎであるかのように憂う。
最初の目を閉じている1枚はその憂いの瞬間である。
寝ている、と安易に読み取りそうになってしまうが、続く写真からわかるように、真内にとっての休息は「充電」であるから、目を閉じるという行動は休息ではない。
休息を提案し、その休息の手段は人それぞれであると説く。
スポーツ選手のような面白みのない健康論を真面目に語る。
どんな小さなトピックも手を抜かない。それは日常に笑顔を届けるため。
日常とは小さなトピックの積み重ねであるからだ。
視聴者が想像していた真内劇場とは、きっと「舞台の上で独善的に笑いを研究しつづける真内」というもの。
それは商業演劇や映画のような、お金を払って楽しむものと近い感覚であり
我々視聴者はアナリティクスを報酬に娯楽を給付されようとしている。
しかし、真内劇場が始まってみると、舞台らしい舞台(所謂ステージ)と言ったものは無く、やや生活感が過的。と意識したところで、自分が今まで真内に対し、商業性、ないしエンターテインメントに沿った合理性を求めていたことを自覚すさせられる。
休息の必要性を説いた点に戻るが、
そもそも視聴者が真内劇場を観る時間というのは、それこそが休息に割り当てられた時間であるし、そこで休息の必要性を説かれると、今が休息でないかのような緊張感を感じる、と脳から苦言を呈される。
仰る通り、今の社会情勢は合理主義にとらわれすぎな面があり、
真内劇場も、合理的ないし商業的、の反対概念である「休息」の比喩としての日常感がなければ、視聴者の休息の仕方の1つとしての採用もし辛い。
社会が抱えてきた問題が、真内劇場でも起きている。
要するに
真内が真内劇場を「合理商業主義の合間に存在する休息」だと捉えているのに対し、視聴者は真内劇場を「休息という線の上の1点である」と捉えている。という対比が浮き彫りになる瞬間が2話であった。
■3話 「カメラOFF」
カメラOFFというキャッチ―な文言と共にスタート。
当然ながらカメラOFF、は2話の充電との対比である。
2話でこそ休息の必要性を説いた真内であったが、3話は仕事中のようである。ネクタイを締め、メガネをかけ、2話で恐れた商業性の化身のような印象を受ける。
カメラOFFという字面自体は、一見休息の類比に見えなくもないが、それを否定するのが冒頭でお伝えした「ストーリー性」である。
3話のストーリー展開は、カメラONで話終えた真内が、カメラをOFFにして気を抜いていたところ、その様子が筒抜けであったというもの。
このストーリー中での真内が本当にOFFであった時間は存在しない。
筒抜けであった、というオチが成立するのは、真内が客観的にはONであるべきだったことに由来する点からも、その含蓄は読み取れるだろう。
次にキャプションであるが、「カメラOFFのあなたはどんな人? そして、その世界とは?」
我々は常に、社会から、おおむねこうであるべきである、ということを求められているが、それは休息中も例外ではない。3話の真内のように、OFFの我々も社会からしたら十分に評価対象であるのだ。
面接で「休日は何を?」と問われるのは自然なことだろう。
以上の点から、カメラOFFは2話の充電の対比であると言える。
ここでストーリー性の話に戻るが、2話の後にその対比の3話を持ってくる、というストーリー展開について、構造としては、「休息の必要性を説いた後に、我々にとっての休息は社会からしたら休息ではなく合理性の一部分であることを示した」構造となっている。
2話の考察で、視聴者は真内劇場を「休息という線の上の1点である」と捉えている。と述べたが、それは真内劇場に言わせてみれば、「合理主義という線の上の1点である」という言い換えを見せてきたのだ。
休息はこの社会で評価対象である合理性の一部になってしまう
休息もまた、勤勉な日本人の合理性と商業性の一部なのだ。
言うなれば、真内劇場は2話をかけて、
「休息の中で商業物である真内劇場を観て笑顔になろう」
という我々の行動を、
「合理性の中で商業性を愛でているだけに過ぎない」
と否定したわけだ。
もう、1話のワクワク感に視聴者は戻れないかもしれない。
■4話 「怖くない」
1人で映画を見ているという事実に反し、友人の存在を匂わせる真内。
それをボケとして昇華するためにハッシュタグでネタ晴らしをするが、3話より、休息下ではなくなった我々視聴者は安易に笑うことができない。
見終わったことだし、 家に帰りましょうか!
というキャプションに注目。
「」(鍵括弧)で括られていない文章であることから、これは写真に写る真内が、写真内で発した言葉ではなく、キャプションを書く、言うなれば真内劇場を運営している真内から、視聴者に対してのメッセージである。
ということは、4話内でのストーリーとしてではなく、2話で休息の必要性を説いたような、我々への提言としての意味合いが強いはずで、その文言が
「見終わったことだし」なのだ。
であれば、この「見終わった」の目的語は真内劇場と考えるのが当然である。
視聴者が見ていたのは真内劇場だけであったからだ。
真内劇場主催者である真内が「終わった」というからには、真内劇場はある意味で終わったのだろう。
当然毎日投稿であるから投稿はされるのであるが、では、どう終わったのだろう。
言いたいことは言った。だから終わり。
言いたいこととは
2話 真内劇場とは「合理商業主義の合間に存在する休息」であるが
3話 休息とは「この社会で評価対象である合理性の一部になってしまう」
日常の中の笑いを求めていた我々の実を、
合理性の中で商業性を愛でているだけに過ぎない
と看破して見せたのが真内劇場だったわけだ。
最後に4枚目は真内がカーテンを閉じる様子が描かれている。
これは1話の開幕での写真のリフレインであることは明確なのだが、
ここで、1話最後の写真を見返して見ると、両手で幕を掴んでいる。
また、その姿勢、体重のかかり方などから「幕を開けようとしているようには見えない」と違和感を覚えた視聴者もいるのではないだろうか。
どちらかといえば、抑えている。
思い出してほしいのは1話で開幕を焦らされた我々の期待だ。
幕を開けた先には、映画や演劇のような商業的なエンターテインメントが待っているだろうと我々は期待した。
つまり、真内劇場での「幕」とは商業性と日常性を隔てる壁であったと考えられる。
幕を開ければ、休息の中にいると考えている我々は、その実としては
商業性の中の合理的にとらわれていると自覚し、真の休息が得られなくなる。
それをわかっていた真内は、その阻止のために幕を両手で抑えていたのだ。
しかし、真内劇場は始まってしまった。2話、3話と、我々の期待と休息のその実が看破され、我々は4話冒頭の小さなボケにも笑えなくなってしまった。
1話のあの幕が開いてしまったのだ。
4話で真内はそれに気づいた。
4話3枚目、開いた幕を見つめる真内の背中から漂う悲しさ。
そして窓の模様、筋、それらから伝わってくる工業生産物性、これは商業性の比喩である。
だから、4枚目で真内は幕を閉じた。両手で。抑えるように。
もう我々が、日常の中の商業合理性に侵されなくていいように。
4話5枚目。無事に幕を閉じた真内。
我々に安心しても良いとサムズアップするが、その目は真内本人が笑えていなかった。
毛布に身を隠し、今も社会が求める商業合理性に震えている。
■5話 「また明日」
朝7時の目覚まし時計の写真のみで構成される、第一部完結編。
目覚まし時計とは、知っての通り仕事、通勤通学の象徴である。
やはり、商業性合理性の話だ。
「主人公は目覚まし時計」というハッシュタグ、「また明日」というタイトルなどから、露骨にその商業性が永遠に続くことを暗喩している。
そう、幕こそ閉めたものの、
真内は社会(我々)が求める期待から逃れられなかったのだ
これからも毎日真内劇場は続く。
楽しませてくれ、という期待のために。
「#反射でカメラうつってます」
カメラとは3話で言った通り、評価してくる社会の比喩であるから、
そういった社会、ひいては真内に期待していた我々は本当は
真内劇場の一部だったことがわかる
このように1~5話のストーリーを追っていくと、
1話で何故真内が我々を無視した構図を取っていたか、
最後まで幕を開けなかったのか、
それが皮肉的な構図で伝わってきてしまう。至高のストーリー性だ。
■本考察がつづるエンディング
ストーリーのおさらい
1話
視聴者を無視して最後まで幕を開けない真内
2話
生活感を出し、休息の必要性を説くが、商業的な娯楽を求めていた視聴者と乖離する
3話
その視聴者の様子を、休息の中に居ながら商業合理性に追われていると看破
4話
そんな視聴者を商業性から守るために幕を閉じる、1話も同様の意図だったと判明
5話
結果、真内だけが商業合理性に囚われ、真内劇場は続く
以上のようにまとめられるが、皮肉にも
1~5話にかけて内実なにも進展がない
同じく、皮肉にも真内拓実が愛され続けていくのは、その内実の無さからだ。
無意識に商業的エンタメをもとめる現代人には「内実の無さが無い」
本考察の、「メタ客観視点」では、上記で述べた流れになるが、
1つ低次元の「客観視点」から見れば、
真内劇場1~5話は
内実の無い真内拓実が、視聴者を置いて輝き出してしまう物語であった。
視聴者に現状の不和を訴えるために視聴者と乖離してしまった真内。
1球1球全力を込めたツイートは、総括すれば何もないとカウントされ、その中身の無さが評価されるに至っている。
これはマナマナチャンネルの「視聴者といっしょにコンテンツを作る姿勢」とは路線が異なる。
彼が変わったのか、何かによって変わらされたのか。
真内自身にも不和の存在が見え隠れする、真内劇場。
杮はちゃんと、落ちたのだろうか。