大学デビューに関する簡素な感想

※本編1000文字目から

結果が全て って言う人いるじゃないですか。
そんなこと言うなら努力するなよって思うんですよね。


私は努力を美徳としているわけではありません。嫌いだし、しない。
ものごとは結果でのみ評価されていると、そう思いますとも。

努力は結果ではありません。スポーツの大会で勝つことを目指している少年が努力をしたところで、それは評価されません。
ではなぜ「結果が全て」論者は努力をするのでしょうか。それは、努力が結果をよくすると信じているからです。結果のために彼らは頑張ります。

ここに矛盾があります。結果でしか評価しないはずの彼らが、その時点で結果として評価されえない「努力」を「結果を良くしてくれるもの」と評価して採用しているのです。
例を用いてお話します。
スイカに塩をかけましょう。
スイカには「おいしかった」という結果以外求められていません。
人は「おいしかった」を生むために塩をかけるでしょう
しかしこの時この時点で「スイカに塩をかける」は評価されるべき結果を持っていません。
結果が全て論者は、「スイカに塩をかける」を評価してはならないはずなので、これを採用することができません。

上記の理屈に皆さんが疑問を持つ理由が1つあります。
それは、この世には人類史という過去があるからです。
過去の何人もの人がスイカに塩をかけ、おいしくなったという結果を得ています。この過去の評価を採用すれば、結果論者がスイカに塩をかけることは問題ありません。

では話を戻して、人が結果を残すために努力するとしましょう。
まず、何事においても正しい努力はありません。同じ努力をしても失敗する人成功する人が両方存在しその「結果」は任意に操作できません。
これは個人差と呼ばれるもので、人間とスイカの違いはここになります。
何を意味するかというと、人間の努力には努力性と呼ぶべきランダム要素があるということです。
ランダム性があるため、過去、人類史を基に努力を評価するときは恣意的にならざるを得ません。
結果という評価を基に努力をしたいのであれば、
・過去に努力をして失敗した人と成功した人がいるが、成功する方に賭けて努力する
という工程が挟まれます。ギャンブルと同じっすね。

さあ。結果論者が努力をするということは、結果論者が努力の努力性を信じているということになります。
しかし、努力性とはランダム性。結果として評価するほど明らかなものとしては捉えづらいはずです。

努力する結果論者は、結局、努力というその時点では結果のない、不確定な努力というものに身を投じてしまっているのです。

繰り返しますが、結果のために努力をするのは妥当であるが、結果が全てであるなら、努力を採用するに足る結果というものは存在しないため、努力できないはずである。結局彼らも結果ではない何かを信じている。



さて、本題。もうすぐ20歳の貴城と申します。
みなさん、大学デビューしましたか?

したかたも多いと思います。
私は、自分ではしていないつもりでいるのですが、周りから言われることは多々あります。その根拠として挙げられるのは恐らく2つ
・金髪にした
・柄シャツを買うようになった(前までは無地しか着ない)
この2点です。
これらは確かに「変化」ではあります。
しかしながら、大学にはいって起こった変化というのを全て「大学デビュー」という言葉に押し付けるのには語弊があるように思えませんか?
例えば、大学に入って読経を始めた人、大学に入って片腕を切り落とした人は大学デビューではないと私は考えます。
変化と大学デビューを分けているのはどこなのか、考えましょう。


こういう話をするときにはまず辞書を引きます。

『高校生の頃は、それほどクラスで目立たない存在だった人が、大学に入って、主に友達が多く、異性にもモテるような、充実したキャンパスライフを送りたいという気持ちから、見た目や言動を大きく変化させることを意味して用いられる語。』{実用日本語表現辞典}

えー。辞書の時点でだーいぶ攻めてますね。
思ったより僕の言いたいことが辞書にそのまんま書かれていたので話すことはそんなにないですね。

大学デビューの語義において重要なのは変化の内容ではなく変化の目的です。
充実したキャンパスライフのための変化を大学デビューと呼んでいる節が強いようです。
すこし一般化すると個から全体への帰属意思ともいえるでしょう。
多くの友達を作る。異性(クソデカ名詞)にモテる、というのは、ようするに、身なり言動が広く社会で評価されるものにすり寄るということを意味します。広く社会で評価されるものは当然、広く社会で採用もされていますから、ひらたく言えばみんなと同じことをしよう、というのが大学デビューの核にあると言えます。
実際大学に行けば同じような服装、髪型の人が散見される、というのは有名な話ですね。

これにのっとると、たとえどんな派手髪だろうが奇抜なファッションだろうがすげえ趣味だろうが、広く評価され、広くみんながそれでない限り、全体への帰属意識はないということになり、大学デビューではないと言えるのではないでしょうか。

辞書に書いてあるように、大学デビューの語義に「目立つこと」は含まれません。逆に、目立ってしまうと、大学デビューの根幹である、全体と同じでいいよね、という帰属意識が達成されないからです。

じゃあ目立つような変化をする人って大学デビューじゃないよね。
むしろ、目立たなくなった人こそ大学デビューだよね。

という軽いつぶやきで今日は終わっときます。



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