多様性を認めろ!
*警告 本記事に書かれているすべての内容について根拠は一切ありません
*ご精読あざ~~誤字脱字衍字は対応しません
東京の秋葉とか京都の四条あたりにいる女の子と話すのは好きだけど、同じクラスの女の子と話すのは苦手な方、いませんか?スポーツ部は嫌いだけどスポーツ漫画は好きって方、いませんか?クイズは好きだけどクイズ番組は嫌い、リアルで話すの苦手だけどネットの人は好き。家に出る虫は嫌いだけどYouTubeでついつい虫の動画を見てしまう、そんな方、いませんか?
このような、自分に近しいAが好きまたは嫌いなとき、自分と遠いところにあるAにその逆の感情を抱いてしまうことを、”メッテンヘルンの逆好意説”といいます。
私はスポーツ漫画が好きでスポーツ苦手、タバコ吸ってる人は好きだけど自分で吸うのは絶対に嫌 だったりします。
この心理効果は商品のプロモーションにも使われてたりして、
「自分が今持ってる商品は不満だけど、画面の向こうでタレントが持ってるこの商品が好きになった」みたいなことが世界中で起きているわけです。
お気づきのかたがいらっしゃるかもしれませんが、実は”メッテンヘルンの逆好意説”なんてものはありません。調べてもでてこないでしょう。
ですが、このちょっとの間、貴方は少なからず
「存在するであろう”メッテンヘルンの逆好意説”」に想いを馳せ、感動し、
「存在しないとわかった”メッテンヘルンの逆好意説”」に(なんやねん)と幻滅し、下手すれば気分を少しでも害すなどしたんじゃないでしょうか。
それこそがまさに、”メッテンヘルンの逆好意説”なのです。
みなさんこんばんは。
こんなことをしている場合ではない貴城です。
レポートをすっぽかしてやることではないと自分でもわかっています。わかっているからなんだというのですか。わかっていたら何でもできるのならガリレオもソクラテスも生きているに違いありませんよ。わかっていることとの戦い、それはかつての天才たちの人生であり、貴城の人生であるというわけです。
さて、みなさん、多様性認められてますか?殺されてませんか?
うんうん。そうでしょうそうでしょう。辛かったね。
今日はそんな皆さんと一緒に「多様性を認めろ!!」とシュプレヒコーりゅをあげたいと思います。
せーーの。
多様性を認めろーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
残念ながら今回はそうはいかない。
諸君、多様性を認めろ!というが、何をもってして認められないと言う?
忌避される?忌避されるのもするのも多様性だ。それを否定するのか?
そう
権利だ。君たちは権利を主張しているな。今回は便宜上その権利を”人権”と呼び、話し合おう。
私の名はロシタカという。もちろん偽名だ。よろしく。
まず、「多様性を認めよ」と言うのであれば、まず人間がなぜ多様なのかを理解しなければならない。人間が多様であるのではなく、かつて多様なモノをわざわざ”人間”として括ったのだ。いまあるクニやシャカイというのは君が集まっているのではなく、人間が何人も集まってできている。
だから、世の中は君のルールではなく、人間のルールでできている。
それは当たり前で、理解に苦しむ部分ではないだろう。
次に 人権 だが、
人権というのは「人権あれ」と人権があるのではない。
人間がいて、それに人権が与えられるのだ。先ほどいったように人間というのは多様なモノを人間のルールで”人間”に括ったものだ。そのルールで括られたものには人権がある、と法が定めている。
法というものがどれほど信用できるか、という話はしない。権利というのは法ありきで認められるからだ。
このように、人間であれば人権はある。
人権がないということは人間ではないのではないか?
そう考えたことは? ある?
前述のように、人間であるかどうかはかつて、多様なモノを括ったときのルールで決められている。
そのルールを教えろ?残念ながら今回はそうはいかない。
しらないんだ。そんなルールは。だが、ある。
君は美容師法を知っているか。三角関数は理解しているか?運動方程式は?
知っている、完璧な理解がある、とは言えないルールが世の中にはたくさんあるが、
それでも我々は生きていてそれらを使いこなしている。美容室には通うし、関数で動くスマートフォンも使いこなす。
人間を括ったルールも同じだ。ルールを知らなくても人間かどうかはわかる。
私から見たら君は人間だ。ほかの人に君を見せてもそう言うだろう。その自信は君にもあるはずだ。
見た目で判断している? 見ずとも君が「私は人間か」と声でも文字でも尋ねれば、そうだと返事が来るし、私がだれかに君を紹介しても人間であることを想定する。人権があるかと尋ねればある、と答えるだろ?
何故か?多様性のあるモノを括ったからだ。それを人間と呼んだからだ。
多様性をみとめろ?疑問符が尽きない。なぜなら当の昔に、誰かが人間を人間としたときにはそんなもの認められているからだ。
では誰だ!?誰が君を人権がない、人間がないと言うというのだ。
君だ。
君だけが君には人権がないと言い、人間として扱われないという。
そんなことはない。君は人間じゃないか。
人間のルールで、人間なんだ。
1度自分を見つめなおすんだ。自分のルールじゃない。
人間かどうかは、人間のルールで決まっているんだ。
そして繰り返す。人間には人権がある。これが法だ。
君を人間にした法で、すべての人が君を人間と認めるルールだ。
君には権利がある。人権がある。
ないと言っていたのは、君だけなんだよ。
気に入らないか?このルールが。
気に入らない奴がいるのは認める。そういう奴は人間をやめていく。
括りからのがれていく。それもいい。だが、そうすると人権もなくなる。
人間でないものに人間が何をするか、は人間である君なら知っているだろう
人間であるかないかを決めるのはルールと言ったが、ここまでくれば意味合いが変わるだろう。
君が人間でいたいか、いたくないかだ。
人間のルールに従い、人権と人間に守られて生きていくか、
君は人間でないと言う君自身のルールに従い、人権などを捨るか。
選択は君次第だ。