なくしものが見つかった喜びを味わえないのは可哀想だ
腕時計をなくした。部屋のどこを探しても見つからない。ダメ元で最近ハマっているバッティングセンターに電話したら、
「あ、ありましたー!」
と陽気な声が返ってきた。あのときの感動、安堵、高鳴る鼓動、喜怒哀楽の喜と楽のみを煮詰めたような感情は何にも劣らない。そもそもバッティングセンターに腕時計していくなよ。どうせ外すんだから。
昔からものを忘れることが多い。「持っていく」ことはそんなに忘れないのに、「持って帰ってくる」ことをよく忘れる。
だから宿題を持っていくのを忘れたことはほとんどない。ただ、給食袋を持って帰ってこず怒られた経験は腐るほどある。記憶を司る海馬のうち、役目を終えたあとの道具を覚えておく部分だけ欠落しているのだろう。
もう22歳。きっと治りはしない。この欠陥と付き合っていく運命なのだ。
忘れることに慣れているからと言って、私物を忘れたときの絶望感には慣れているわけではない。
ポケット、バッグ、ありとあらゆる引き出し、机の下、思いつく限りのすべてを探索しても見当たらない。目の前が一瞬で真っ暗になり、記憶を辿れるだけ辿る。このときの頭の回転は瞬間最高速度を記録する。
家の中になければなくしたであろう場所に片っ端から電話をかける。失踪物の特徴を聞かれたあとの保留音、「どーせないんだろうな」と自分に言い聞かせるが心の奥底では期待する。そしてたまーーに、本当にたまーーに「ありましたー!!」を聞ける
物を忘れない人は、この一連の感情の起伏を味わえないのだろうか。可哀想に。心の底から可哀想に。代わりに映画でも見て似たような焦燥感と喜びを味わうのだろうが、実際の体験には勝てない。
几帳面な人たちへ。ぜひ何かを忘れてみてほしい。きっと病みつきになるはずだ。
「忘れないに越したことはないでしょ」うるさい。正論は言わないに越したことがない。あー、腕時計あって良かった