「住む」ことの代償
「住む」ということにこだわりを持つようになったのは最近のことだ。社会人になるまで、そして社会人になってからも、いくつかの街を転々としてきたが、どの街も離れるときに寂しいだとか、恋しいだとか、そんな感情を抱いたことはなかった。そこで関わった人には、生きている限り会おうと思えば会える。お気に入りのお店があればまた来ればいい。変わることは、そこにもう「住まない」ということだけ。私にとって土地とは無機質なもので、そこに執着なんてものを感じたことはなかった。
あの「おせっかい」に会うまでは。
人生二度目の転職。それまで住んだところより比較的小さな街だったからか、あるいはまだまだ旧い人情味の残った土地柄だったからか。あろうことかその「おせっかい」は私に話しかけてきた。
「よく見る顔だね。おなかはすいてないかい」
「今日は寒いから暖かくして早く帰りな」
「こんな遅くに帰ってきて、若い子が。危ない」
いつしかその「おせっかい」を私は、おばあちゃんと呼ぶようになり、隣にくっ付いていた猫を渋丸と命名した。勝手に。
それからは不思議なことのオンパレード。
私ははじめて土地の呼吸をきいた。毎日毎日、おばあちゃんの挨拶に合わせて、この土地も挨拶をする。おばあちゃんが心配の声を上げると、この土地も私を包むように。渋丸のステップに合わせて土地もはずんだ。
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それから私は三度目の転職をした。が、引っ越すことはなく、毎日二時間かけて職場に通っている。
今日もこの土地はよくはずむ。
今私は、おばあちゃんが毎日持ってくる作りすぎた煮物の処理方法と、
週に二回は来る孫娘のあやしかたに、頭を悩ませているところだ。
ち綾
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