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東京藝大の卒業修了作品展

江戸の鬼門・上野の森へ。こんでた。


ここで展示を行った若い学生の方々は、コロナ禍の数年間が、10代末から20〜30代前半の修行期間と同期しているわけで、きっと、彼らは、製作も、自宅やら自室でおこなったりして、狭い一隅でひとりすごすことが比較的多かったであろうな、と中年のわたしは勝手に妄想する。

(現実は違うのかもしれない。知らない。)。

会場には、可憐で美しい、アニメの世界からそのまま跳びだしてきたような、アート学生たちがわんさかいて、美術の世界も変わったな、、というか、昔からそうなのか、とか、新鮮だった。

そんなフレッシュな人たちが、世の中のある時期や環境や、それにまつわる思考、思想から、どのように影響を受けて作品化したのか、中年的には、大いに興味をそそられた。

展示作品をながめると、全体的に、アトリエで仲間でつるんで製作している解放感よりも、自室で想像、妄想を広げながら作品に取り組む、少し内向的で、アンリアルな世界観をもとに制作された作品が多い気がした。じぶんで枠組みから設定して、要素をじぶんで調理して、そこにきれいにおさめて、まとめた。というか。愛されたい、嫌われたくない、受動態的世界観、というか。

とはいえ、自分の暮らす広い世界や環境から枠組みをみつけだし、自己完結することなく、雑多な要素を、コントロール不能な状況を、作品に取り込んで製作する、そのようなことが、ものづくりをする上では本当はもっとも大事だと思うのだけど、ここ数年はもっとも困難で不能だったのではないか、と思う。

べつに、他人とつるまなくてもいいと思うけど、たとえば、作品作りのために、自分の目で見て、足を運んで、画集や本を手にとって、広げて、内省していく、という経験はわかいうちはかけがえのないものだし、それが現実に制限されるのは、やっぱり幸せではない気もした。ひとは精神が閉じこめられたときに創造力を発揮しうるのか、ウィであるなら、どのようなものか、考えてしまう。

屋外に広がる上野の森の、あやしい瘴気と淫靡な自然を、からだいっぱいにとりこんで、屋外に向かって開かれていったら、また違う表現が生まれるのかな、と勝手に想像した。森へ出よう。

そんなことを考えてたら、上野の鬼門にあてられて、1日、不幸・不運が相次いだ。上野おそるべし、ですね。


高村光雲先生。

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