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ブータン映画『お坊さまと鉄砲』(5)群像劇とレイヤー構造

4. 群像劇とレイヤー構造

『ブータン 山の上の学校』は主人公ひとりの視点から語られます。
都会の若者が、伝統的価値を、最初は疎んじながらも、次第に受容していく過程が物語の軸となっていきます。
観客の多くは、おそらく、ブータンの人々のまじりけのない善意や純粋さに好感を覚え、都会の若者に自己を重ねて共感することで、彼の心情の変化、もしくは「改心」を、ある種のカタルシスとともに、すんなりと受け入れる構造が、そこにはあります。伝統に対し近代都市が敗北するテーマは、ある種のモラルの問題として、一定の普遍性があるのかもしれません。

一方、『お坊さまと銃』は群像劇の形式をとります。
登場人物の視点は複数化されており、それぞれ別々に発生する出来事が、緩やかに重め合わせられながら、異なる立場の異なる思いが差しこまれます。

群像劇の利点のひとつは、二項対立を回避し、多視点化により複数の価値を相対化しやすい点にある気がします(もちろんそうでないこともあろうが)。

『お坊さまと銃』では、伝統と近代の共存がもたらす価値の混乱に焦点があてられますが、銃をめぐる混乱などは、その典型である気がします。
例えば、米国人とブータン人の案内人でさえも、仏教者である僧侶に対して一定の礼儀や慎ましさを保ちます。一方で、若い僧侶は、テレビで見たジェームズ・ボンドに憧れて、純朴な表情で破壊力抜群のライフルを要求し、米国人たちの度肝を抜きます。
米国人は、近代的な契約概念にもとづき、銃を貨幣を介して購入しようとしますが、老人が僧侶に銃を寄進してしまったことを知り困惑を覚えるのも、近代的な契約概念が寄進という宗教的行為により簡単に覆されてしまう現実に直面するからです。

一方で、周到な設定だなと思うのは、厳格な銃規制下にあるブータンにおいて銃取引は違法であり、ゆえに契約効果はない点です(たぶん)。米国人が老人を非難できる立場にないのは本人も承知しており、ブータン人案内人が「この国はどうなっているんだ!」(うろ覚えです)と叫ぶのは、案外、監督自身の声であるのかもしれません。

『お坊さまと銃』がそれほど単純でないのは、群像劇の形式をとり、近代化や民主制度を受け入れつつあるブータンを描きながら、伝統と近代の価値を相対化しつつも、なお、都会人が伝統的価値を受容する軸へと、有無をいわさず傾けていく点にある気がします。高僧による法要の儀式は、伝統的価値が圧倒的な決定力をもち、近代側にいたはずの米国人と案内人が伝統的な価値に飲みこまれていきます。

僧侶と銃の物語は、宗教的なカタルシスのうちに、ある種の滑稽さをもって、締めくくられるようにみえます。とはいえ、『お坊さまと銃』における近代と伝統の共存と混乱は、単純な二項対立にくくられない、ブータンの近代化への模索を示しているのかもしれないかな、とも思います。

作品そのものの時代設定は2006年ですが、2023年時点からふりかえり描くことで、ドルジ監督がブータンの近代化の歩みにみた道のりが反映されている気がしました。

(たぶんまだつづく)


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