ミクニヤナイハラプロジェクト『船を待つ』@吉祥寺シアター
2000年代初頭に、ダンス批評の界隈で、「ニブロールnibrollがすごい、矢内原美邦がすごい・・・!」という噂が、かけめぐりました。
春のつむじ風に誘われるように、ニブロールの舞台をみに何度か出かけた記憶があります。
コンピュータ仕掛けの無機質なセノグラフィーと、めくるめく舞台を駆け巡る若いダンサーたちのどこか学生っぽい若い肉感(?)というか、人間くささが、印象的でした。
あれから20余年。わたしにとっての勝手に20余年ですが。
吉祥寺シアターの改装前最後の公演リストに矢内原先生の名前をみつけて、興味をひかれてチケットを予約しました。ちなみに全席自由席。早めに劇場に着くようにがんばりました。
今回は、矢内原先生の劇作家としてのプロジェクトであり、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』をベースとしたピースとなっています。
吉祥寺シアター公式サイト
https://www.musashino.or.jp/k_theatre/1002050/1003231/1004011/1006002.html
リハーサル室のような薄暗い部屋に入ると、青白い光に照らされたフロア中央の長手いっぱいに、三途の川のような白い帯がはられており、この川を挟んだ両岸に、パイプ椅子と平座があわせて50席ほど平行にならべられており、観客はそこに座らせられます。この川の流れにそって、「船を待つ」3人の登場人物(移民、貧しい青年、ゴドー)が、縦横無尽に走り回ったり、観客のすぐ鼻先で語り、叫びます。
貧富と格差、引きこもり、移民、など、2020年代前半の日本を典型化するようなキーワードが登場人物化されていますが、なによりも、矢内原版のゴドーの面白さは、他者としてのひととひとが出自や背景を超えて互いに出会うことで、血の通った個別の身体として受肉する瞬間にたちあえたことではないかな、という気がしました。
セノグラフィーの無機質さと俳優の肉体感が舞台上で共存する様子に、かつてみたNibrollの舞台を思い出しつつ、同時に、俳優の演技という行為からたちのぼる瘴気が、『ゴドーを待ちながら』という、解釈の開かれた不条理劇の緊張感を保っていました。上演というのは、舞台という時間と空間の膨張と爆発みたいなものなのだろうな、と、俳優の方々の熱気を間近で感じた次第です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?