見出し画像

秋風

一度も対面しなかった台風は、夏をかっさらっていったのだろうか。
9月1日。
イタリアから戻ったら、日本は秋だった。



喫茶店の前の道をぶらぶらと歩いていたら、大嵐の名残のような突風が、帽子を吹き飛ばした。

帽子の紐が、顎で引っかかる。
帽子は背中側に垂れて、風でゆらゆら揺れている。

唐突にあらわにされたおでこは、日照りで汗をかいていたから、そこにぬるい秋風があたり、ひやりとして気持ちがいい。

ああ、日々が。
日常が、季節が。
流れているなぁ…

と、なんとまあシンプルなことを、しみじみ考えるものか。

旅に出た日々があったからこそ、余計にそんなことを感じるのかもしれない。



帰国からすでに2週間以上が過ぎた。
なんだか今、「空っぽ」という感覚がある。


「最近、どんな感じですか?」

久しぶりに会う師匠に聞かれて、

「何もなくて、平和です。
何かしなきゃという気が湧くこともあるんですが・・・まあいいかと。
しみじみと、平和で、なんだか空っぽです。
何か次にやりたいことも、思いつかないです。」


そう話すと、

「素晴らしいですね」

と、菩薩のような優しい笑顔で師匠が返す。


「人間、何かしなきゃ、何かで埋めなきゃと、
つい気忙しくしてしまうものですが。

そうではない、【余白】にただ、居るということ。

その状態になるまでの道のりを経て、今、『その状態に居る』ということ。
これが、どれほど大切なことか。


『自分』というものが、ゆるゆるにゆるんで、ほどけて。

『自分』が溶けて無くなっちゃうんじゃないか、というような気持ちになることも、あるかもしれません。

だけど、全く大丈夫。

余白期間を経て、ゼロになって、ここから、新しい「千秋」が生まれるんだと思うと、ワクワクしますね。」


師匠の口から出てくる言葉を、身体に受ければ受けるほど。
これまで起きたことのすべてに、納得するかのようなサラサラの涙が、流れて、流れて、清々しかった。



「頭は、たくさん間違える。だけど、身体は間違えない。」

昔、師匠が話してくれたこの言葉は、私のお臍の下あたりにすっぽりと入り込んで、おかげでこれまで、何度救われてきたことか。


身体は間違えない。

たとえ、死にたい、辛いと思ってしまうような時も、身体は、呼吸と鼓動をやめない。
身体は、間違えることができない。

この身体の、揺るぎなき、「生きようとしかしていない」という圧倒的事実を、信頼している。




いまここにある「余白」を、引き続き、味わって、楽しんで。

そのあとで、次のことを考えよう。


偶然か必然か、「余白を引き続き楽しんでいてもよい」という状況に、今は暮らしている。

なんと幸いなことか。

いいなと思ったら応援しよう!