ひらめきが、アイデアが、舞い降りる余地が生まれる。 隙間をつくっておこう、と。 気楽にそう思う。 隙間なく動きたくなるような時もあるけれど、それはそれで楽しんで。 疲れたら休めばいい。遊べばいい。 休んだら、遊んだら、そこはまた、「隙間」になる。「余白」になる。 そういえば、「遊び」って、「余白」や「緩み」といった意味もあるんだよな。 こういうところに、日本語の素敵さが、よく表れていると思う。 こういう日本語の感性に触れるとき、日本語が母国語であることを、ラッキーだと
映画「パラサイト〜半地下の家族」をみた。 胸が、キュゥキュゥ、と痛くなって 観終わったあともずっと、 その痛みが続いている。 ハッピーエンドが大好きだ。 だけど、 ハッピーエンドかどうかとか バッドエンドかどうかとか どちらにも属さないけどどうかとか そんなところとは全く関係のないところで 心に大きな余韻を与え続ける映画 ーーー刺激とは別の、余韻。影響力。 これを与えてくれる映画は、 いい映画、すごい映画だなと思う。 うまく言葉に表せないのだけど、自分の人生を
折に触れて伝えなければと思うのだけど、ふたりとも、思い切り好きに生きて欲しいです。 何回も伝えてきたから、今更わかってるよ、という言葉が返ってきそうだけど、それでも何度でも、言葉に出して言っておかなければと思うのです。 私自身が、私の意思を確認するためでもあるのかもしれません。何度でも言います。 好きに生きてください。 でも、助けが必要なときは、必ず、私や、信頼できる人に助けを求めてね。 死にそうになる体験もあるかもしれないけど、なんとかそこは、死なないギリギリまで
一度も対面しなかった台風は、夏をかっさらっていったのだろうか。 9月1日。 イタリアから戻ったら、日本は秋だった。 喫茶店の前の道をぶらぶらと歩いていたら、大嵐の名残のような突風が、帽子を吹き飛ばした。 帽子の紐が、顎で引っかかる。 帽子は背中側に垂れて、風でゆらゆら揺れている。 唐突にあらわにされたおでこは、日照りで汗をかいていたから、そこにぬるい秋風があたり、ひやりとして気持ちがいい。 ああ、日々が。 日常が、季節が。 流れているなぁ… と、なんとまあシンプルな
水の都・ヴェネツィアの街は、どこを切り取っても絵になる。すごい街だ。 「大自然の美しさに、息を呑む。」 これは、誰でも経験したことがあると思う。 だけど、人間が、長い年月と労力をかけて作り上げてきた美しい風景には、 「すんごいなぁ…」 その情熱に、執念に。半分呆れてしまうと言うか。 感服して、すっかり降参してしまうというか。 ヴェネツィアに関しては、その連続だった。 だけどヴェネツィアでは、今回の旅で初めて、「非常に残念な人たち」にも出逢ってしまった。 イタリア
ツアー旅行に参加したことがないから、ツアー旅行がどんなものなのか詳しくは知らない。 だけど、どんどん目的地に運んでもらえて、案内してもらえて、きっとすごく楽なんだろうな、と思う。 一度は試してみてもいいかもしれない。 対して、個人で海外を旅行するときは、あらゆるアクションのすべてが【クイズ】になる。 タクシーの呼び方、目的地への辿り着き方、宿の玄関の開け方、バスの乗り方、地下鉄の乗り方、公共トイレの使い方、食事の注文の仕方、お金の払い方… 私はこの小さなクイズたちを
午前4時、まだ空は真夜中の様相。 トランクを積んだ車で成田空港を目指す。 東の空がうっすらと明るみを帯びだす。 「今から、世界の反対側に行く。」 新しい日の太陽を迎えるため、徐々に薄明るいオレンジ色を備えていく空を見ていたら、実感がやっと湧いてきて、どうしようもなく胸が跳ねる。 今回は、娘たちも旅に同行する。 私の趣味(カフェ文化に触れたい)が主体になる旅なので、一緒に行きたいと次女が言ったときは嬉しかった。 長女は旅に対して、気乗りしていなかった。 だけど長女と
世の中は8月半ばを過ぎたらしい。 朝起きて、おはようを言って、顔を洗って、歯を磨き。 食事を作り、朝食をいただき、家族を見送って、軽く掃除して。 それでもまだ朝の7時くらい。 一日は、これから。 まだ始まったばかりで。 「ここから、なんでもできるなぁ。」 静かになった自宅の居間で、犬とソファに寝そべって、ニマニマしながら、自由を味わう。 そんな日常が尊い。 「大きな地震が来るかも知れない」という。 いつ来てもおかしくないという。 そうなのかもね、と思う。 「
6月が始まる頃、ブログを書いた。 6月にやりたいことを、書き出してみたのだけど。 書き出した、と思ったら、家族のことで、想定外の出来事が次々起きて。 駆け抜けた。あっという間に、濃ゆい6月が過ぎた。 気づけば7月中旬まで来ている。 6月にやりたかったこと ・喫茶店のパンケーキメニュー更新 → できなかった😢 ・ブログ更新(最低でも週1回) → 週一はだめだったけど、6月中に一応4本記事を上げたから、ギリギリOK・・・?(いやだめだろう) ・ロードバイクで合
中学時代に、一番一緒に、たくさん遊んだ友人二人が、昨日湘南に遊びに来てくれた。 喫茶店を貸切にして、3人で話して話して。 あまりにも楽しい時間が一瞬で過ぎた。 時計は、6時間以上が経過したことを示していた。 先月末、小学校の同窓会が千葉県船橋市で開かれた。 誘いを受けた時、 「行かなくていいや、何を話したらいいのかわからないし」 と思った。 でも、ひとり、熱心に誘い続けてくれる友人がいたので、 「なんでもかんでも、体験できるのは生きているうちかもな。」 と思い直して、【試
「サイタマノラッパー」という映画をみた。 映画マニアの方々から、かなりの高評価ということで。 かなり期待して、観た。 上映時間、約1時間40分。 終わったあとの感想は、 「長かった・・」 「よさがあまり、わからなかった」 だった。 ラスト5分ほどのシーンで繰り広げられた、主人公によるラップは、よかった。ラップが始まったとき、この映画の中で初めて、「いいぞ、いいぞ」と思えた。 だけど、それもどこか、力のなさ。 行き場のなさ。惜しさ、のようなものを感じて。 なんだろ
なんだか最近、「今日、自分が生きていること」が、奇跡みたいに思えるのだ。 生きていることが嬉しい、とかじゃなく。 綺麗ごと抜きの、強い実感として、「よく生きてるな」と。 草花の輝きが、雲の移ろいが、好きな人たちの呼吸が、しみじみと喜びとして、沁み込んでくる。 同時に、過去や現在進行形で鬱を患っている(患っていた)友人たちに、たまに会ったりすることがあると、それだけでもう、泣きそうになる。 よく生きてる。 よく生きてきた。 明日も生きていて欲しい。 でも、明日も生きていた
ぼんやりと過ごしていても、時間は過ぎるし。 あれこれやりたいことをやりまくっていても、時間は過ぎる。 どちらの過ぎ方も、意外と同じくらい気に入っている。 冬を越え、春を迎え、梅雨をすっ飛ばし、あっという間に夏に片足つっこんだ感がある。 ここ数ヶ月はずっと、「ぼんやり味(み)」の強い時間を過ごしてきた。 5月最後の日に、なぜだかめずらしく、 「6月は、やりたいことをたくさんやる月にしよう」 そんな想いが湧いてきた。 若干の「躁」感が否めないけれど、「躁かもしれない、大丈
「1月中は休む」と決めていたものの、こんなに完璧に休むことになるとは思わなかった。 休んだ理由は、風邪。長引いている。 旅行でも行こうかと思っていたのに。 山登りでも行こうかと思っていたのに。 「風邪のおかげで」 全くどこにも行かなかった。 代わりに、「得たもの」は大きかった。 大きな大きな、余白の時間。 静かで愛おしい、日常の時間。 自分の現在地を確認して、自分の今の願い、これからの願いを確認するには、もってこいの時間になった。 今週初め、やっと風邪が治ってきた
空が澄んできて、外気が鼻先を冷たくする。 冬が深まってきたと感じる。 「ねむい」と言う回数が増えた。 予定がなければ、永遠に布団の中にこもっていられそうだ。 衣擦れの音と、体温の反射による蓄熱。 心を自分の内側に向けるには、とてもいい季節だ。 なんとなく、冬に充分こもっておくからこそ、夏の躍動がより弾けるような気がしている。 自分の本来の歩き方。 自分の本来の声。 そういうものに、集中して耳を傾ける時間が、ここ数年、しっかりと取れていて、ありがたいことだと感じる。 歩
アイヌ語の「ラムピリカ」には、「美しい心」のほかに、「いい塩梅」「自然美」などといった意味もあるらしい。 「美しい心」の意味も素敵だけど、「いい塩梅」「自然美」もすごくいいなと思って、それで喫茶店の名前を「喫茶ラムピリカ」に決めた。 年が明けたらすぐに、開業9年目になる。 「気づいたら、大変に『いい塩梅』の喫茶店になっていたな」と。 先ほど、12月のスケジュールを組み立てながら、思った。 自分にとっての、『とてもとても、いい塩梅』。 週2回の、喫茶開店。 それに合