行き当たりばったりで来た道だけれど、愛おしいと思う 英日翻訳者 猪原理恵さん
猪原理恵(いはら りえ)
1984年、神奈川県生まれ、大阪府育ち。国際基督教大学卒業。2012年、JAT第9回新人翻訳者コンテストの英日部門で入賞。ITやマーケティング系の文書のほか、『Dome-King Cabbage Demo』『Minoria』『エアラフェル(拡張版)』などのゲームを翻訳。初めて親にお願いして買ってもらったビデオゲームは『パロディウスだ!』。
『Dome-King Cabbage Demo』より
こんにちは、猪原理恵と申します。ゲームとIT翻訳を中心に、フリーランスの産業翻訳者として働いています。JTFジャーナルの頃からこちらの連載は拝読しており、とても好きなシリーズでしたので、矢能さんから寄稿のお話をいただいて非常にうれしかったです。そして大喜びでお引き受けしたのですが、実際に筆を執ってみると、何を書けばいいのか、良い案が浮かばず途方に暮れてしまいました。というのも私はもともと翻訳者になりたいと思っていた訳ではなく、人様にお話できるような志やサクセスストーリーがある訳でもなかったからです。
そんな私ですが、今日は、これまでに経てきた点と点をつなぐことをしてみたいと思います(注:以下には、うつに関する記述が含まれます。また、ゲームの『Inscryption』『The Vanishing of Ethan Carter』『The Red Strings Club』からの引用・ネタバレが含まれます)。
「裏方は花道つくりて花を見ず」
純文学からラノベ、映画、アニメなど、様々なカルチャーに触れて育った私が学生時代に叶えたかった夢は、カルチャーをつくる仕事に携わることでした。具体的には、東京ディズニーリゾートで企画に携わるような仕事をしたいと思っていたのですが、残念ながら運営するオリエンタルランドへの応募は不採用となり、日本コンベンションサービスという、学術集会などイベントの運営を行う企業に就職しました。通訳や翻訳の業務も行っている会社ですので、名前をご存じの方も多いかもしれません。
私は学会運営を行う部署に配属され、イベントのヒト・モノ・カネの動きを管理することになりました。1年以上前から準備を重ね、イベント当日は黒のセットアップスーツに身を包み、トランシーバーをつけて現場全体を統括します。そこで私は、他人のビジョンを実現するために、自分の頭で考えて仕事をするという姿勢を教わりました。お客様であるイベントの主催者の方々は、最高のイベントを実現することを常に求めていらっしゃいます。しかし時間や予算には限りがあり、技術的に難しいこともあります。お客様や参加者の皆様の前ではニコニコしながらも、影では奔走し、調整を行って、実現しうる最高の結果を目指す――現場運営を手伝ってくださる職人気質のディレクターさんたちからは、大切なことをたくさん教わりました。翻訳に直接関係する業務ではありませんでしたが、ここで学んだ態度や仕事の組み立て方は、翻訳者としての業務に大いに役立っています。
素直に読む力が基礎になった
学会運営の仕事は大好きだったのですが、いろいろとあり、結婚と同時に退職することにしました。夫は教員であったため、家族に合わせてスケジュールを柔軟に調整できる仕事をしたいなと考え、そこで初めてフリーランス翻訳者という選択肢が頭に浮かびました。英語力に関しては、大学在学中に英語学習プログラムで徹底的に訓練を受け、アメリカに1年交換留学に行ったこともあり、あまり不安はなかったです。
もうひとつ、読解力も私の強みでした。これには小学生の時に通っていたYMCAの読書教室がとても良い経験になりました。先生が非常に工夫してくださっていて、登場人物の多い海外の児童文学をメモを取りながら読んで人に説明したり、俳句を聞いて思い浮かんだ情景を絵に描いたりといった演習を通じて、幼いながらにも自然と読んだ文章を過不足なく解釈できるようになっていました。
持論ですが、翻訳者の場合、最初のうちは美しい言葉や凝った表現をひねり出すよりも、素直に読み取って素直に訳すスキルの方が大切だと思います。もちろん複雑な表現もできるにこしたことはないのですが、翻訳の役割はまず第一に、原文を読むのと同じ体験を訳文を読む人に届けることです。基礎的な読解力や表現力が伴わない状態で技巧に走ってしまうと、過剰表現や余計な形容など、いわゆる誤訳につながる可能性が高くなります。これが癖になると非常に危険です。
素直に訳しながら自然な訳文に仕上げるには、言葉の意味を抽象的に捉えることを心がけるのが良いと思います。
”You’re a stupid, stupid, idiot gamer like the rest.”
”バカで、アホで、間抜けの典型的なゲーマーだ。”
これは『Inscryption』というゲームの一文ですが、”like the rest”というフレーズが、抽象的な変換を経て”典型的”という単語になっています。英語で出会ってから「いい訳語はないかな」と探すのではなく、普段から言葉を抽象的な概念と紐付けて頭の中の引き出しに蓄えておくのです。そうすることで、つぎはぎするのではなく自然にこなれた表現へと言い換えることができます。Twitterの #訳語のアイデア というハッシュタグのついたツイートを検索すると、ベテランの方々のアイデアを見ることもできます。翻訳を学習中の方は、ぜひ参考にしてみてください(そして参加してみてください!)。
さて、私の話に戻りましょう。もちろん翻訳の基礎的な訓練を積んでおく必要はあったので、フェロー・アカデミーの通信の実務翻訳コースを受講しました。そしてしばらく経ったところで、翻訳者ネットワーク「アメリア」に出ていた求人にがんがん応募しました。最初にお仕事をいただいたジャンルはITです。もともとこの分野に関してはマニアックな知識も多少あったし好きでしたので、抵抗なく作業できました。私が参入した頃はクラウドサービス系の翻訳が多く、通信や暗号技術などの書籍を読んで新しい知識を吸収するのが楽しかったです。
ゲーム特有の表現に触れる
IT翻訳を続けて数年が経ち、ほかのジャンルもやってみたいと思った私は、ゲーム翻訳に挑戦してみることにしました。その時の私はゲームにあまり詳しくはなかったのですが、IT翻訳のためにとても高価なパソコンを使っており、これでゲームもできるのであれば一石二鳥と考えたことがきっかけです。本当に、行き当たりばったりですね(ちなみに私はサイコロを持ち歩いていて、自分の意志で決めきれないことはサイコロを振って決めます)。
そうやって覗くことになったPCゲームの世界は、まるで玉手箱でした。今でこそ任天堂もインディーゲーム市場に目を付けてNintendo Switchで積極的にリリースをしていますが、当時はインディーゲームといえばSteam(コンピューター向けデジタル配信プラットフォーム)でリリースされることが多く、個性豊かなアートワークが並ぶストアページを見て、私の知らないところで独自性の高いゲームがこんなにもたくさん存在していたのか! と衝撃を受けました。セールの時期には半額くらいになることも当たり前なので、洋ゲーを片っ端からジャケ買いしてプレイしました。
そしてフェロー・アカデミーで行われた武藤陽生先生のゲーム翻訳講座を受講し、ゲームならではの表現についても意識するようになりました。忘れもしない最初の授業、教材として使用された『The Vanishing of Ethan Carter』というゲームは、次のテキストで始まります(訳は武藤陽生先生による公認の有志翻訳)。
”This game is a narrative experience that does not hold your hand.”
”これはナラティブなゲームです このゲームはあなたの手をつかみはしません”
この前置きのあと、プレイヤーキャラクターはひとり森の中に放り出されます。イーサンという子どもから調査依頼を受けてこの森に来たという説明はあるのですが、「どこへ行け」とも「何を探せ」とも表示されず、行動のすべてがプレイヤーに委ねられています。つまり”a narrative experience that does not hold your hand”というのは、手をつかんで案内するようなことはしないので、自分で考えてストーリーを感じてください、ということです。
ゲームでは、プレイヤーの入力に合わせてコンテンツを反応させたりさせなかったりすることで、インタラクティブなストーリーを展開できます。たとえば昔話の「桃太郎」のワンシーンの場合、本であれば「おばあさんからもらったきびだんごを、犬にあげました」という一文を表示するだけですが、ゲームであれば、おばあさんからきびだんごを受け取るところで演出を入れ、犬にきびだんごを渡す前後にもアクションや選択肢を設定することで、プレイヤー自身が考え、感じてプレイするように仕向けることができます。これによって、犬にきびだんごをあげるというエピソードが一人ひとりのプレイヤー固有のものとなり、独自のゲーム体験を生み出すことができるのです。
私はこのゲーム特有の仕組みをとてもおもしろいと感じ、そこにゲームをつくる人のプレイヤーに対する愛を感じました。
ゲームが私を救ってくれた
そんな折、夫がうつ病にかかります。療養の日々が続きました。側から見て良くなっているのかどうかわからない、彼の中で何が起きているのか、私は何をしてあげればいいのかもわからない。いろいろな感情がぐちゃぐちゃになってしまって、パソコンの前に何時間も座っているのに作業がまったく進まないような時期もありました。
ちょうどその頃に『The Red Strings Club』というゲームをプレイしました。サイバーパンクの世界が舞台のビジュアル・ノベルで、会話の選択を通じて、運命とは、幸せとは何かを考えさせられます。
ゲーム中、全人類の脳すべてにアクセスし、意志に関係なく個々人の気分や考えに影響を与えることのできるスーパーAIに、その管理権の使いどころを教え込むシーンが登場します。スーパーAIに設定できる条件は、自殺、レイプ、殺人、差別。避けられるのであれば避けた方が良い他人の未来の事柄に対して、スーパーAI経由で強制的な介入を図るか、それとも、個人の意志を尊重してなすに任せるかを、プレイヤー自身が選びます。
“Would you mind answering some questions about where to draw the line when tuning Social Psyche Welfare?”
“ソーシャル・メンタル・ケアを発動させる基準に関して、あなたの意見を聞かせてもらえませんか?”
文字だけで書いてしまうと、とても酷な質問をする苦しいゲームに思えてしまいますが、『The Red Strings Club』はすべての演出が美しく、そのダイアログにたどり着くまでのプロット、繊細な音楽とグラフィック、そして伊東龍さんの素晴らしい訳文のおかげで、正解のない問いに、真正面から向き合って考えられるようにできています。
私はその時、現実がとても嫌になっていたのですが、その選択を目にして、いろいろな思いがあふれかえり、「人間の良いところを認めて、ちゃんとこの世界を愛したい。ちゃんと生きたい」と、強く思いました。号泣しました。
現実の世の中が厳しく複雑であるからこそ、ゲームというフィルターを通じて条件付きの世界に置かれることにより、現実の不条理や、自分の本当の考えを客観視できることもあると思います。ゲームによって救われることがあるということを、身をもって実感した瞬間でした。
それから私はゲーム翻訳を行っている企業のトライアルを積極的に受け、徐々にゲーム翻訳の仕事を増やしていきました。明るく楽しいカジュアルなゲームや、おしゃれでユーモラスなゲームの翻訳もやりがいはありますが、やはり私は、プレイヤーを揺さぶりにかかるストーリーを描くゲームの翻訳で、皆さんに満足してもらえた時がうれしく感じます。
異端審問をテーマにした『Minoria』や、ヴァンパイア社会の一員となって封建・契約社会での駆け引きを楽しめる『ヴァンパイア:ザ・マスカレード 紐育に巣食う血盟』、大いなる謎とその種明かしで多くのプレイヤーに衝撃を与えた『Inscryption』などで良い評価をいただけたことは、私の支えとなっています。
大切にしたい姿勢
最後に、翻訳を続けるには心身の健康にできるだけ気をつけて、良い言葉に触れることが大切だと思うのですが、心の健康のために私が大切にしている2つの考え方を紹介したいと思います。
まず第一は、他者に依存する目標は弱いということ。”他者に依存する目標”というのは、”好きな人と”両思いになるとか、”賛同者が集まったら”挑戦するとか、自分以外の要因を絡めた目標です。そういったものをモチベーションにすることは良いのですが、固執してしまうと想定外の事態に対応できません。他者に依存する目標を持つのであれば、期限も同時に設けた方がいいと思います。期限内に上手くいかなければ切り替えて、自分だけでどうにかできる目標を設定し直す。厳しい考え方かもしれませんが、自分だけでも前に進むことで、いつか元々の目標を叶えられるようになる可能性だってあるはずです。
二つ目は、人を許すことです。自分のことも含みます。人を許すのは、他人のためではなく、自分のためです。これはインターネットの人生相談で見たお坊さんのまったくの受け売りなのですが、人を許せなければ、それがずっと頭の中から消えず、自分が苦しい状態から抜け出せなくなります。人を許すのは、言うほど簡単なことではありません。でも、何か許せないことがあるということは、それはそのまま何らかの”理想”があるということです。スルーや距離を取る方法で構いません、怒りのエネルギーを良い方向に使ってください。”Hate is baggage. Life's too short to be pissed off all the time.(憎しみとは耐えがたいほど重い荷物/怒りにまかせるには人生は短すぎる)”とは『アメリカン・ヒストリーX』の台詞ですが、本当にそのとおりだと思います。
言葉というなまものを扱っていると、いろいろ予想外のことは起こります。そのうえ世界情勢や経済に目を向けると問題は山積みだし、自分の家族のことなんかも気にしていたら、本当にきりがありません……でも私はこれからも、きれいな言葉を訳して、素敵な体験を皆さんに届けたいなと思っているので、こういう態度で、しなやかに、強く歩んでいきたいなと思っています!
長々と書いてしまいました。ここまで読んでくださってありがとうございます。皆さんがこれからも素晴らしい作品や言葉に出会えますように! それから、物理的、電子的に私とつながってくださるすべての人に感謝を<3
猪原理恵(いはら りえ)
1984年、神奈川県生まれ、大阪府育ち。国際基督教大学卒業。2012年、JAT第9回新人翻訳者コンテストの英日部門で入賞。ITやマーケティング系の文書のほか、『Dome-King Cabbage Demo』『Minoria』『エアラフェル(拡張版)』などのゲームを翻訳。初めて親にお願いして買ってもらったビデオゲームは『パロディウスだ!』。
『Dome-King Cabbage Demo』より
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