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ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』はしがき
この「ちあき倶楽部別室」のプロフィールに書いたように、当クリエーターページは、恩師の現国教師ちあき先生が出された課題図書というか勧められた「これ読んだら」の本、トーマス・マンの「魔の山」の感想を書き出す為に始めたものなのだけれども、どちらかというと自分の感想を表現するというよりも、自分はこう考えるが、他の人はそれをどう思うか、あるいは、その考えを補完、あるいは、反論も含めて、拡げるコメントが貰えればいいなと思って始めたのだった。ところがというか、やはりというか、想定すべきだったのだが、今現在までのところ、コメントは頂けていない。やはり、コメントをするということの敷居は高いようだ。(コメントするためには、そもそもnote.comに登録する必要があるし)
「魔の山」に対する他の人の感想ならば、コメントを貰うまでもなく、ネットを検索すれば、評論から、解説、読書感想は、数多拾える。まあ、それでいいのであるが、それらを読んでいると、どこか自分の読み方とは違う気がする。自分がズレているのだが、勿論、自分の読み方が正しい、とか、正解だと言うつもりはない。視点と言うか、立ち位置というか、自分の個性なんだろうけど、そういう、独自の視点を集めて、多方向から見ることによって、そこに、また、新たな実像が現れる気がするのだ。富士山を静岡から見る、伊豆から見る、箱根から見る、山梨から見る、あるいは、宇宙から見る、いろんな方向から見ることで、また、見えてくる確かな実像があるのではなかろうか。と思う。
「魔の山」の感想は、第六章、第七章だけを上げた。それ以前の部分、第五章まではなくてもいいかなと思っている。(実際には書く根気がない)
https://note.com/search?context=note&q=ちあき倶楽部別室%20魔の山
ちなみに自分は、引退した有閑老人なので、日々、魔の退屈に脅かされている。特にしなくてはならないことは強いてない。バイトでもすれば、少しは社会貢献にもなるだろうけど、その仕事を探す根気も、仕事をする気力も耐力、体力もない。で、折角始めた、このブログ(読書感想文)という暇つぶしを続けてみたくもある(これは耐力は要らない)。だが、そうは言ってもちあき先生に、次の課題図書を伺うということも出来れば避けたい(勧められた本が自分に向かない本だった場合、困るかなとの懸念)。で、「魔の山」に続けて読むとして、自分の読みたい本として、何?と考えた時、この「デミアン」が浮かんだという訳。ドイツ文学だし、同時代作家だし、ノーベル文学賞作家だし。そして、訳者も同じ、高橋健二氏。
高橋健二氏の略歴をみると、「1931(昭和6)年ドイツ留学中に、ヘルマン・ヘッセを識り、交流が始まる。『ヘッセ全集』の全翻訳と別巻『ヘッセ研究』で1957年、読売文学賞を受賞する。」ともある。今回、「魔の山」に引き続いてなのだが、どちらかというと、こっちが専門、ヘッセ研究の第一人者であると言っていい。過去(凡そ半世紀前)に『デミアン』は既読なのだが、その時の訳者だったかは残念ながら憶えていない。(というか、訳者は今までそんなに気にして読書していない、恥ずかしながら)ヘルマン・ヘッセは、『車輪の下』を読んだことがある、名作の一環として、読んだことがあるという程度のなのだが、『デミアン』は嵌った。ちょうど、ユングに嵌っているところだったので、相乗効果だったのかも知れない。但し、関連性を知ってて読んだ訳ではない。そして、嵌ったので、『ガラス玉演戯』も読んだが、まあ、それは、それなりにだった。半世紀たって、また、読み直してみたい、ユングとの関連を知って読み直したら、また、見えてくるものがあるのかも知れない。『デミアン』、前回、読んだときは、物語読みをしていた、つまり、ストーリーで読んでいた。まあ、小説なので、物語なのだが、地の文、の思想的な部分は、読み飛ばしていた。何も記憶に残っていない。今回、その部分を、読んでいきたいと思っている。
で、「はしがき」である。単なる前語りではなくて、しっかり全体のテーマ、読者への注意喚起(要諦)が書かれていると思う。
「すべての人間は、彼自身であるばかりではなく、一度きりの人間以上のものでないとしたら、物語を話すことなんか、なんの意味も持たないだろう。しかし、すべての人間は、彼自身であるばかりでなく、一度きりの、まったく特殊な、誰の場合にも世界のさまざまな現象が、ただ一度だけ二度とはないしかたで交錯するところの、重要な、顕著な点なのだ。だから、すべての人間の物語は、重要で不滅で神聖なのだ。」
「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人も完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうと努めている。」
「しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。」
「すべての」と言って、尚且つ、個々に特殊だという。そして、自己探求(自分自身になろうと努めている)と言っている。
エーミール・シンクレールの自己探求の物語であるのだが、読者にも、「めいめい」の自分自身がある筈だと、問うているのではないかと思う。
ユングの「個性化の過程」の影響が見てとれる。
各章ごとに、感想(私の自分自身の)を書いて行こうと思う。