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ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』感想
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読んだので、その次作の『シッダールタ』を読んでみた。
というか、世の中の本離れの傾向著しく、書店自体、激減しており、そして、更に、海外小説の書棚スペースの減少化も凄まじく、ヘッセの文庫本(新潮文庫)は、『デミアン』と『シッダールタ』、そして『車輪の下』ぐらいしかない有様なのだった。トーマス・マンは、100分de名著のお陰で『魔の山』があったが、あと『ベニスに死す』だけしかない。最早、海外小説(名作)を読もうとしたら、図書館に行くか、ネットで購入する以外にないのかも知れない。
若い頃、ヘッセに沼っていたので、読んだかも知れないが(『ガラス玉演戯』、『知と愛』は読んだように思う)、この『シッダールタ』の記憶は薄かった。今回、読んでみて、もしかしたら、読んでいたかも・・・というぐらい(若い頃、手あたり次第の読書量だったので)で、憶えはない。
この『シッダールタ』は、老いてというか、ある程度、人生の後半になってから、読んだ方がいい本の気がする。自分の印象になかったことの言い訳なのであるが・・・。
さて、あらすじであるが、多くの人の読書感想がネットで散見されるので、ここでは書かないが、
以下のYoutube動画(分かり易いし、まとまっている)をお勧めしたい。↓
特に、この小説のテーマを表現していると思うところは、第二章「ゴーヴィンダ」に、結論して書かれている気がする。
そのまま全部でもいいが、以下↓
「さぐり求めると、その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に憑りつかれているので、何ものをも見出すことが出来ず、何ものをも心の中に受け入れることが出来ない、ということになり易い。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見出すとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。」
「知識は伝えることができるが、知恵は伝えることが出来ない。知恵を見出すことは出来る。知恵を生きることは出来る。知恵に支えられることは出来る。知恵で奇跡を行うことは出来る。が、知恵を語り教えることは出来ない。」
「あらゆる真理についてその反対もダウ様に真実だということだ! つまり、一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、言葉に包まれるのだ。思想で以って考えられ、言葉で以って言われ得ることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。」
「世界そのものは、我々の周囲と内部に存在するものは、決して一面的ではない。人間あるいは行為が、全面的に輪廻であるか、全面的に涅槃である、ということは決してない。人間は全面的に神聖であるか、全面的に罪に穢れている、ということは決してない。そう見えるのは、時間が実在するものだという迷いに捉われているからだ。時間は実在しない。」「時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と全の間に存するように見える僅かな隔たりも一つの迷いに過ぎないのだ。」
「言葉は内に潜んでいる意味を損なうものだ。ひとだび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすり替えられ、いくらか愚かしくなる。」
「世界を透察し、説明し、軽蔑することは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛し得ること、世界を軽蔑しないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と讃嘆と畏敬を以って眺め得ることである。」
「何んとも知れない涙が老いた顔に流れた。無上に深い愛と、無上に慎ましい尊敬の感情が心の中で火の様に燃えた。身動きもせずに座っている人の前に、彼は深く地面まで頭を下げた。その人の微笑が彼に、彼が生涯の間にいつか愛したことのある一切のものを、彼にとっていつか生涯の間に貴重で神聖であった一切のものを思い出させた。」
<<感想>>
川の流れは、時間の流れを想定させる。「水」という「物」でいうなら、そこに同じ「物」ではなくて、絶対はなく、常に移り変わっていく。それは、すなわち、思想や言葉は、一面を表わしているが、捉われると、全体性を見失ってしまう ということに通じる。
ニーチェの永劫回帰や、ユングの全体性と共通の考え方を感じた。
勿論、感じただけで、表面的な理解(そもそも理解ではなく、言っているのは、全体性や、愛なのだろうけど)、「悟り」には程遠い。
そもそも、小説で「悟り」や「解脱」を描くことが、難題というか、「矛盾」なのだろうと思う。
父親の期待に背いた、シッダールタが、息子に期待して背かれる。そこに、川の流れの無常さを感じる。
第一章の少年期、既存の知識の学習に充て、そして、それに飽き足らなくなった。
第二章になり、青年期から壮年期、既存にはない結果を求めて、得た知識とは逆の途、富とギャンブル、そして悦楽を体験する。だが、そこで得たものは、空虚感、虚しさだった。
川の流れに象徴されるものは、結果より、過程。移り変わる変化、成長の段階にこそ、価値を見出すこと、そして、人々の成長に、ヒントを与えるという自らの役割だったのかと思う。結果より、過程重視。
川の渡し守というもの、ヘッセは、膨大な手紙(返事)を多くの人に向けて書いたという。ヘッセにとって手紙が、シッダールダの対岸に人を渡す手伝いをする「舟」だったのではないかと思ったりもする。直接、「悟り」与えることは出来ないが、ヒントを与えることは出来る、それが「手紙」だったのかも知れない。
また、「知識」と「知恵」の分別のところは、密教の教えを、空海に乞うて、拒否された最澄の違いを思った。最澄には、密教は経典で理解できるはずの「知識」だったのだろうが、空海にとっては、自ら会得すべき、「体験」や「知恵」だったのだろう。
私には、ただ、そう「感じる」としか言えない、幼稚な感想文だが・・・、「悟り」あるいは、「達観」は、小説ではなくて、自らの実体験でしか得ることが出来ない ということを、読者に課題として投げ出してくる、そういう小説なのだろうという気がする。主人公に共感してカタルシスを得るような小説ではない。そんなことぐらいしか、私には言えない。
やさしいユング心理学 11 補講 対立する要素と、全体性の回復