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魔の山 第六章「『精神錬成』」

第六章「『精神錬成』」・・・ナフタの過去と終わりのない論議

ナフタの来歴が明かされる。屠殺者であった父親が、殺人の嫌疑でリンチの末濡れ衣で惨殺され、残された一家は逃れて、その後、ナフタはその才で修道会への途を切り拓いたが、健康上の理由から阻まれ、現在の療養隠遁生活に入った。
肉体と精神がテーマとなるが、醜さと高貴さが共存するナフタの存在は、彼の生まれ、経験を象徴しているように読める。
ずっと、散歩中のセテムブリーニとナフタの議論が続くが、政治、教育、健康、病気、刑罰、死刑、土葬、自然、精神・・・と、多岐にわたり、それぞれで対立し、その主張の意味を解読するのさえ困難で、文章は難解を極める。
これは、僕の解釈なのだが(文中のどこにもないのだが)
ひとつ気付いたのは、そこにあるのは「自由」に対するナフタの態度かも知れない。
前段の「ほうほうの体で」で、「自由」に惧れをなして逃げ帰ったジェイムズ叔父さんだったが、肉体を嫌悪するナフタにおいては、肉体=自然=自由であり、精神=神=修道会であり、そこには、忌むべきものとして「自由」があり、それに敵対するようにして、解放するものとして、「自由」への嫌悪そして放棄、絶対精神(戒律)への服従があるように思う。
「自由」が何故疎ましいかというと、「自由」には、「責任」が付き纏うのである。
宗教が救いであるのは、自分で決断する権利つまり「自由」を放棄することによって、「責任」=「罪」への負い目、恐怖を感じなくて済むからである。
「自由」は成功すれば褒章だが、失敗すれば罰則である。「自由」のダークサイドを代表して、ナフタの存在があるのかも知れない と解釈してみたのだが・・・

果たして、「自由」って
自分のことは自分で決めたいですか?
誰かに決めてもらって、それを全うしたいと思う方ですか?

ある程度、自由に決められて、ある程度制約(要請)があるというのがベストかも・・・
ちなみに、閑な毎日、結構「自由」の方に振り切った生活しているのですが、どうなんだか・・・というのが僕の今のところの課題かも

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