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魔の山 第六章「ほうほうの体で」

第六章「ほうほうの体で」・・・連れ戻しに来たジェイムズ叔父さん

平地からの使者、故郷の親戚たちを代表して、副領事のジェイムズ氏が、失踪者たる青年を「引きはがして」連れ戻すという依頼、意図をもってやって来た。
一週間に渉る同居体験、観察の結果、ここがまったくの別世界であるということ、そして、カストルプがとうにその環境に適合し、一部になっていることを叔父は知る。
そして、一週間滞在した後、支払いと謝礼を済ませ、こっそりと、別れも告げずに逃げ帰ってしまった。
理由は、ここに居続けたなら、下の生活が間違った不自然、不法なのと感じられてしまうであろうことを悟ったからだと、その恐ろしい予感の為に、彼は「ほうほうの体で」逃げ帰ったのだった。
こうして、カストルプを取り戻そうとする下界の試みは失敗し(ある意味、消極的にも承認された)
そのことが、カストルプにとっての「自由の完成」を意味した。

自由な存在を目前にしたとき、それを否定し、制限のある環境へ引き戻すことが出来るか?
それは、ある意味、自分も取り込まれてしまう(ミイラ取りがミイラの)恐怖にも感じられるか?

『知らなくても良い、または知らないほうが良い事まで知ってしまう』という本末転倒にも似た事象、経験

特に、自分は知ってしまったが、知らなければよかった
あるいは、知らせないでおこう
と思うことありますか?

知るということ(厳密には分かるということ)が、人を変えてしまう。
そのことに対する惧れはありますか?

自分が知る、人に知らせる
僕は、話や意見を述べるときに、その人(受け手)が消化できるかどうか、人(相手)を選ぶのですが(なので黙っていることが多い)
逆に、自分が受け手である場合には、何でも知りたいし、知らなくてもよかったということはないつもり(判断は自分がしたい)の人間ですが・・・、知らなくてもいいことは教えてくれるなと思ったりしますか?

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