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魔の山 第六章「その上もうひとり」

第六章「その上もうひとり」・・・ナフタ登場

閑に飽かしたカストルプは、病気から生体学への興味、そして植物標本作り、天文観測とある意味、セテムブリーニイズムを発揮するようになる。
循環する季節から、すべてを回帰させる永遠の悪ふざけという表現になり、ヨーアヒムとの戦争必要論、不可避論争になったりする。

ヨーアヒムとの意見の対立が見られたところで、ここで満を持して、セテムブリーニの対立項(論敵)としてナフタが登場する。小説としては、セテムブリーニだけでも成り立つ気がする。僕は、正・反・合の弁証法で、反の位置でナフタが登場したようにも思う。

にしても、ナフタ、小柄な痩せ男で、腐蝕的ともいうべき醜さと、なんか酷い見た目が強調されている。
かぎ鼻(ユダヤ人を暗示か?)で、分厚いレンズの眼鏡。でも身なりは立派。声は、ひびの入った皿を指関節で引掻く声(かなり不快)と、身なりはいいのに、生理的に辛い人物と表現されている。ここまで、醜悪に描く必要があるのか、「ベニスに死す」の華麗なる美男子の対局。後に、彼が自死することは、この小説のひとつのクライマックスでもあるが、マンの近親者の自死もあり、ナフタの人物像に込めたマンの思惑、意図するものは深いのかも知れない。

「自由」はドイツ語で、英語のliberty, freedomのどちらで表現されているか分からないが、制約からの解放だけではなく、自己意識にも関わってくる
「自由」とは、ある意味、自分らしくあること、自分である理由でもあると思うが・・・。
「自由」に対しては、ナフタ「精神は常に自由の代理人」、セテムブリーニ「自由は人間愛の法則」と言わしめている。

この章節以降も、論争、二元論と一元論の対立で、セテムブリーニ対ナフタが、この小説の核になることは確か。
この容姿、容貌、そして、後に語られる彼の悲惨な生い立ち(「屠殺者」の子、孤児、不治の病、嘱望された将来も断念)の一方、イエズス会の潤沢な資金によって、論敵のセテムブリーニとは対照的な豪奢な部屋に住み、高価な洋服を着て、贅沢な暮らしをしている。そして、頭脳は恐ろしく明晰であり、思想的には、テロルによって神の国の実現を目指すという凄まじい過激派。

こんな極端な人物像、どう評価しますか?

ナフタは、セテムブリーニを相対化させる役割で登場する人物と、僕は感じるが、

ナフタの作中での役割、位置、存在をどう感じましたか?

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