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どのように生きるのか

週末で祖父の葬儀を終えた。
本気で家族4人しかおらず、祖父の言いつけ通り余計なことをせず
お寺の読経もない、無理やり葬儀会社に半ば押し付けられたオプションの花増量で
花だらけの見送りだったけど結果的にそれでよかったなと思っている。

戒名も無事につけられた!
本を読みながら、ある程度の宗派ごとのルールに則っていれば
なんでもいいような感じだったので
家で将棋をやっているようなイメージの院号と
宴会部長らしさを出したかったので「歓」という漢字と祖父の名前を合わせた法名で
我ながらなかなかいいんじゃない?!と思える戒名がつけられた。
祖父もまさか孫に戒名つけられるとは思っていなかったであろう。どう思っているだろうか…。
っていうか、自分で考えてたならどっかわかるように書いといてよ!と思うけど。
でも本を読んでいると、そもそもは生きているうちに戒名を授かるのが自然らしい。
というのも、仏教の五戒(嘘つかないとか殺さないとか)を守ることを前提として授かるものらしく
死んでしまったら、五戒を守るもなにもないということらしい。
自分で決めるのもいいけど、自分の人となりを知っている人に決めてもらうのもいいなと思った。
だって今回のように「将棋好き」とか「宴会部長」とか自分では出てこないだろうから。

土日で祖父の葬儀あれこれは終わったので週明けはとりあえず出勤したけど
どうやら5日間休みが取れるらしく、仕事が閑散期ということと
ヨガの先生に「それってじいちゃんからの最後のプレゼントやん!」と言われて
「そっかー」と妙に納得したので、せっかくだし受け取ることにした。

やはり95歳という高齢だったことと
ある程度は覚悟ができていたので悲しくて仕方ない!みたいなことにはならないが
お金を全然使わない人だったけど
私の留学のお金を援助してくれたな、とか思うと
祖父が私に費やしてくれた分は私がしっかり活かさないといけないなと思ったり
祖父の遺骨は95歳とは思えないほど強靭で、
火葬場の職員の人も驚くほどのもので
そういえば私も骨折や大きな怪我や病気はしないなと思うと
それも祖父から受け継いだものなのかもしれないと思っている。
うちの家族のなかで1番の切れ者だった祖父に最も似ているのは
おそらく理屈っぽい私なんじゃないかなと思っていて
会う頻度はそんなに高くなかったけれど
私は祖父が好きだったのかもしれないなと今になって思う。

それからずっと考えているのは「人は死んだらどこへ行くんだろう」ということ。
すっかり遺された身体から祖父が抜けていた様子をみて、
それが骨だけになるのも当たりにして
「祖父は祖父の身体からもういない」というのを強く感じた。
じゃあどこかにはいるはずなんだよな…!
そうであれば人間の本質とはいくら飾り立てても身体ではなく
もしかしたら意識でもない、もっと別のものなのかもしれない。
まあそれを私が解明できる日は来ないわけだけど
何よりも大切なのは命があるうちにどれだけの体験をするのかということなのかなと思う。
そうであれば、今の私の生き方は「体験」を十分にできる状態であるだろうか。
これから自分がどのような生き方をするのかに思いを巡らせる祖父からの夏休み。

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