きりんの卵

今朝、ベランダできりんの卵が孵った
ご機嫌斜めな秋雨前線がやって来て
しゃぼん玉も飛ばせそうにない空模様で
植木鉢の皿にたまる雨水も濁っている

うっかり卵の殻を脱ぎ損ねたきりんは
頭に殻をかぶったままでぽてぽてと歩き回る
ベランダの隅の植木鉢にこつんとぶつかって
その拍子に殻がぺしゃりと割れた
きりんは植木鉢の縁を見上げながら
雨の中でぱちぱちと両目をしばたたいた
まつげの先で雨粒がぽろぽろと弾けて
それが朝露を払う杉の葉に似ていた

きりんは出かけたがりなくせに鞄のなかにもぐりこんで
時折思い出したかのようにぴょんと首を出す
きりんが出かけたがるから雨が降るのか
雨が降るからきりんが出かけたがるのか
それは主人公だから最後まで死なないのか
最後まで死なないから主人公なのかという問いにも似ている
昨日とは違う帰り道できりんは
グレーの長い舌でキンモクセイを美味しそうに食べた

物語の鍵を握っていながら先方が開きっぱなしで
鍵の出番が来ないことがままある
でも開け閉めがこっちの自由だと知る時が
たぶんやってくる (来ないこともある)
きりんは真っ暗なかばんのなかから
何度でも首をぴょんと出してまばたきをする
そのたびに立ち止まる 
きりんと同じ方を見つめる

景色と音の輪郭が戻ってくる

雨の日の傘の下でつんと鼻をつく香りに
見上げて初めてクスノキだと気づく
黄みどりのおおきな実をつけているのを
見つけて初めてカリンだと気づく
息を吹き込んではじめてその笛の
たおやかな、あるいは鋭い音色がわかるような
そんなほんの少しとおまわりなしかけをこしらえて
世界はたぶんそんなやりかたであたらしい

みっつめの帰り道の途中で雨が止んで
しゃぼん玉が一つふわふわと飛んできた
きりんはかばんからぴょんと首を出して
長い舌を出してしゃぼん玉に触れたその時
ぱちん と音がして
きりんは消えてしまった
残った空白を埋めるように空の晴れ間を
映しながらしゃぼん玉がみっつよっつと続いた
部屋に帰ってかばんを開けると
ぽってりと黄色く熟したカリンの実が
雨のしずくをつけたままで入っていた

明日からは秋晴れが続くらしい

(2016年10月)

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