短編小説「死ぬ前に見る夢」
死ぬ前に見る夢は美しい。何かの映画の台詞だったか、あるいは、誰かの言った言葉だったか、はっきりとは思い出せないけれど、そんなものは嘘っぱちだと分かる。私の見る夢はいつだって美しくない。神様が私をこらしめるために見せているに決まっているからだ。
始まりはいつもあの渓谷だった。幼い私と妹の美雨(みう)が渓流の岩場で水遊びをしている。私は、新しいお母さんが連れてきたこの妹を、好きになれないでいる。両親の愛情を一身に集める彼女は、愛情に飢えていた私にとって明らかな邪魔者だった。そのうち、山から吹き下ろした風が美雨の帽子を弾き飛ばした。美雨は川面に落ちた帽子を拾おうとして渓流に入っていき、そのまま流れに足をとられてしまった。お姉ちゃんと叫びながら渓流に飲まれていく美雨を、私は助けようともしないで、ただぼうっと眺めているだけだった。
夢はいつもそこで終わってしまう。
悪夢から目覚めた時、私は走行するバスの中にいた。時刻は午前8時半を示していた。さっき時計を見たときは確かに8時45分だった。夢なんかではない。私は確かに見たのだ。その時間にバスが山道のガードレールを突き破って谷底へ落ちていったのを。あの時、内臓が揺れる感覚があって、私は気を失った。それから、あの悪夢を見た。悪夢から目覚めると、私は再び悪夢のような現実の中にいた。私はこの体験を何度も繰り返している。
状況を即座に理解すると、私は席から立ち上がって声を限りに叫んだ。
「運転手さん、今すぐバスを停めて下さい!」
車内にいた乗客が一斉に私を見た。私の隣に座っていた女だけは下を向いて小さく笑っていた。女は黒い帽子を目深に被っていて、庇から下の顔はよく見えない。
「無駄よ」
「お願いです! バスを停めて下さい!」
「だから、無駄だって言ってるじゃないの」
女が帽子をとって私の顔を見上げた。その顔は美雨の顔をそのまま大人にしたように美しく整えられていた。
「…美雨なの?」
「これは、あなたの罪の意識が作り出した世界」
「私の罪の意識…」
頭の中で映像がフラッシュバックした。渓流に飲み込まれる美雨と、それを黙って見ているだけの私。
「お姉ちゃん、あの時、どうして助けてくれなかったの?」
「…ごめんなさい」
「私のことがそんなに嫌いだったの?」
「ごめんなさい…許して」
「死ぬ前に見る夢は美しい。どう? これから夢の続きを見る心境は?」
美雨がそう言った時、前方から対向車が現れ、運転手はそれを避けようとしてハンドルを取られた。バスはガードレールを突き破って谷底へと落ちていった。