時代小説「剣豪将軍」
京の都に戦雲が垂れ込めつつあった。
長らく畿内の政を掌握していた三好政権は、惣領たる長慶の死によってその勢威に陰りが見えていた。これを幸いとして、13代将軍足利義輝は、各地の諸大名に働きかけて、紛争の調停を行い、あるいは、上洛を促して、将軍権威の回復に努めた。
明応の政変以降、衰運の一途を辿っていた足利将軍家は若き剣豪将軍の台頭によってふたたび威勢を取り戻すかに見えた。さりながら、天下の仕置は、義輝の思うままには捗らず、御所の内外には不安と緊張が漂うばかりであった。
三好長慶の死後、沈黙を守っていた三好三人衆が、阿波の足利義維と誼を通じ、その嫡男たる足利義栄を担いで、勢力を盛り返したからである。義輝は、この動きに呼応するかのように、斯波氏の屋敷跡・武衛陣に新しい城を築き始めた。後の世の人々が「二条御所」と呼んだ足利将軍家の御所である。さりながら、この新しい御所は、その完成を見る前に、数多の軍兵によって取り囲まれてしまった。永禄8年5月19日のことである。
その日の朝、御所の外が迫りくる軍靴によって、にわかに騒がしくなった。三好義継・松永久通らが一万の軍勢を率いて、まだ普請も済んでいない将軍御所を包囲したのである。彼らは「義輝に訴訟あり」と頻りに叫んでいたけれども、その実、将軍を弑いし奉らんとしていることは火を見るよりも明らかであった。
外堀を埋めただけの門扉のない屋敷は丸裸の砦に等しく、三好兵の侵入をあっさりと許したばかりか、攻撃の隙さえも与えてしまった。ほどなくして、澄明な空に鉄砲の炸裂音がけたたましく響き渡り、荒れ狂う武者どもの雄叫びが潮のように内へと押し寄せて来た。
争乱とは一線を画した幽玄な居室で、義輝は居並ぶ奉公衆を前に静かに端座していた。奉公衆はいずれも雁首を並べて平伏しており、中には泣き出してしまう者さえあった。義輝は傍に侍っていた近侍に申し付け、盃を持ってこさせると、これを奉公衆に振る舞った。
「皆の者、今までよう仕えてくれた」
義輝は眼前に置かれた盃を持ち上げ、中に注がれた御酒を一気にあおると、これを畳の上に投げつけて叩き割った。奉公衆は皆、一様に驚き、目を瞠った。
「末期の酒じゃ。 飲め」
奉公衆は義輝に促されるままに盃に注がれた御酒を飲んだ。義輝は微笑みを浮かべながらその光景を見ていたけれども、にわかに思いつめたような顔になって、畳の上に四散した盃の欠片を、つぶさに眺めた。
「わしは父上との約束を守れなんだ」
「約束と申されますと?」
奉公衆の一人が恐る恐るきいた。義輝は静かに答えた。
「乱れた天下に静謐をもたらすことこそ、そなたに与えられた天命じゃと、父上は仰せになった。されど、わしが生涯を通じてやってきたことは、この盃を畳に投げつけるも同じであった。将軍の威光を以てしても、畿内の争いを鎮めることはできなんだ。わしにはそれだけの力がなかったのじゃ」
奉公衆は声を震わせて泣き始めた。義輝は瞼を閉じて、咽び泣く声に身を任せた。瞼の裏で在りし日の父・義晴の顔が像を結んだ。
義晴もまた、義輝を死の床に呼び寄せて無念の涙を流した。父は弱い人であった。父を超えるためには強くあらねばならぬと心に誓った。剣聖と謳われた塚原新右衛門に剣の手解きを受けたのはそのためであった。新右衛門は義輝にただ一つのことを教えた。剣の道を極めるためには、水のようにつねに心を穏やかにしていなければならぬ。義輝はその教えを忠実に守ってきた。そして、その心は、今、兵火の音にさらされながら、水のように静謐を保っていたのであった。
「公方様」
義輝は時ならぬ声に目を覚ました。奉公衆の一人、進士晴舎(しんしはるいえ)が義輝の御前にひれ伏して、脇差しに手をかけていた。
「三好・松永の兵を館に引き入れたは、すべて、それがしの不徳の致すところ。この上は腹かっさばいてお詫びするほかはありませぬ」
「言うな。そなたのせいではない」
「いいえ、方々が一万の軍勢を前に斬り結び、討ち死になさっているこの時に、それがし一人がおめおめと生き恥をさらすことはかないませぬ」
「やめよ」
義輝や取り巻きの奉公衆たちの制止もむなしく、晴舎は脇差を抜いて、その刃先を横腹に深々と突き立てた。そして、そのまま真一文字に腹を切り裂いたかと思うと、顔を苦悶に歪めながら身体をくの字に折り曲げた。
「介錯してやれ」
義輝が静かに言うと、傍にいた近侍が刀を抜いて、晴舎の首を落とした。盃の破片が四散した畳の上に首がごろごろと転がった。義輝はその様子を見届けた後、おもむろに立ち上がり、背後に立てかけてあった刀架から薙刀をとった。
「まいるぞ」
「同道いたしまする」
折しも、武者どもの雄叫びはすぐ近くまで迫りつつあった。花鳥風月をあしらった襖が振り下ろされた刀のために破られると、甲冑に身を包んだ兵たちが次から次へと居室の中へ溢れてきた。義輝と奉公衆たちは数多の軍兵に囲まれつつも果敢に奮戦したけれども、多勢に無勢であり、一人また一人と討ち取られていった。
義輝は、薙刀を、あたかも己の腕の一部であるかのように振り回して、襲いかかる兵(つわもの)どもを打ち倒した。その戦いぶりは兵たちの眼に鬼神のように映ったけれども、義輝の心はあくまでも無そのものであり、水を湛えたようなそれには波紋一つ浮かんでいなかった。
そのうち、義輝の周りには死骸の山ができあがった。兵たちは、その一部になりたくないのか、義輝の前に出るのを、極端に躊躇するようになった。義輝はこれを好機と見て、薙刀を懸命に振るった。そのまま戦いの趨勢は義輝に有利のままで決するかに思われた。新右衛門の剣がわしの背中を押してくれている、そう思ったのも束の間、破綻が訪れた。
敵の放った鉄砲の玉が薙刀の刃先を打ち砕いた。その一瞬に生まれた隙を、兵たちは決して見逃さなかった。暗い居室に白刃が閃き、義輝の腕を斬った。幸い、利き腕ではなかったので、義輝はもう一方の腕で抜き身を放って兵たちと斬り結んだ。敵は剣の実力では適わないと見るや、数に物を言わせて斬り込んできた。さすがの剣豪将軍も四方八方から刀を向けられては応戦のしようがなかった。義輝はじりじりと部屋の隅まで追いつめられ、やがて、館の外へと弾き出された。身体が障子を突き破る感覚が背中の芯から拡がった。最早これまでと思った時、瞼の裏で父義晴の顔がふたたび像を結んだ。
「天下の仕置をそちに任せる」
義輝は障子ごと外へ弾き出されて仰向けに倒れた。空を仰いだ義輝の眼から涙がとめどなく流れた。
「父上、相すみませぬ。私はその器ではございませんでした。いずれ、私の志を継ぐ者があらわれて、世を平らかにしてくれるでしょう」
声なき声が天に吸い込まれた刹那、数多の白刃が義輝の巨躯を刺し貫いた。義輝は苦悶の声を一切上げなかった。滂沱の涙は、義輝が骸になった後も、頬の上を流れ続けた。