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エッセイ「狼は天使の匂い」
先日、実家の母親から連絡があって、「正月くらい家に帰ってきたらどうだ」と叱責されてしまった。そんな風に言われてしまうのも無理からぬことだった。私は、必要が迫られた場合を別にすれば、ほとんど実家に帰ることがない。そんな実家嫌いの私が、このほど、重い腰を上げる気になったのは、実家に置いたままの私物を整理する必要に迫られたからであった。
母は、私が幼少の砌に使っていた玩具を、つねづね処分したいと考えているフシがあった。私はその企みを何としてでも阻止しなければならなかった。
これを読んでおられる人々にも思い当たるフシがあると思うが、子供の頃の玩具というのは、それを必要としない人間にとってはタダのガラクタでも、使っていた当事者にとってみれば、このうえなく大切な宝物にほかならない。そして、何よりも、そこに込められた思い出こそは、男にとっての黄金の少年期であり、余人には侵しがたい聖域なのである。
そのことを、理屈ではなく体験として分からせてくれる映画を、久しぶりに観た。「太陽がいっぱい」のルネ・クレマン監督がかつて撮った「狼は天使の匂い」という作品である。
本作では、少年の心を持った男たちの死との戯れが、遊び心たっぷりに描かれている。「男はいつまでたってもガキなんだ」ということを、これほど分からせてくれる作品もない。
母が実家の私物を整理するように言ってきたまさにその時、奇しくも、私はルネ・クレマンの描いた男の世界に魅せられ、輝きを失った黄金の少年期がふたたび精彩を放つのを、全身で感じていた。そして、それが何者かに侵されることのないように、全身全霊をかけて守り抜いていこうと、心に固く誓ったのであった。
かくして、私は母という闖入者から、自分の聖域を守ることができた。「狼は天使の匂い」を見る機会に恵まれなかったならば、私は自分にとって大切なものを永遠に失うことになっただろう。