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短編「父の秘密」
紅茶にマドレーヌを浸すと、幼い頃の温かい記憶がふつふつとよみがえる。そんな出だしで始まる小説を、大学時代に読んだことがある。
それと同じように、母の口紅を引いたとき、がらんどうになった意識の底へ、温かい記憶が注ぎ込まれた。
世界にとっては一瞬でも、私にとっては気の遠くなるような昔の出来事。
甘美な記憶は、ほんのわずかではあるけれど、私から喪失感を拭ってくれた。
あの時の私は、混沌とした世界に立ち向かうには、あまりにも無力でちっぽけな少女だった。
当時はアメリカがベトナムの共産化を防ぐために戦っていたし、世界のいたるところにヒッピーという髪の長い人たちがいて愛と平和を歌っていた。
私と言えば、12歳の少女にしては早熟で、学校と家を往復するだけの生活にうんざりしていて、そこから抜け出すためには早く大人になるしかないと考えていた。だからだろう、愚かな私は両親の寝室へこっそり忍び込んで、母の使っている口紅で、唇を朱に染めようと企んだのだった。
けれど、その試みは結果的に失敗した。
思わぬ先客がいたからだ。
鏡台の前に座っていたのは、母ではなくて父だった。そうして、鏡の中には、私がいるのとはちがう世界がひろがっていた。
鏡に映る父は、私や母が見慣れている、あの厳しい父ではなかった。ふっくらとした唇は威厳を湛えておらず、鮮やかな紅に染められて光沢を放つばかりだった。
私と父は鏡越しに視線を交わした。その時に父が見せた、恥にまみれた顔を、私は今でも忘れることができない。
それ以来、父が優しくなったような気がするのは、秘密を握られたことへの後ろめたさがあったからかもしれない。
母は、口紅が少しずつ減っていくのを、父のしわざだとは思っていなくて、大人の世界を知った私に、何がしかの罰を与えなければならなかった。けれど、当の私はそれを罰だとは考えなかったし、また罰を受けたことで父を恨んでいたわけでもなかった。唇を朱に染めた父は、純粋な少女の目に異常者とは映らず、むしろ、新しい世界へ乗り出そうとする冒険者にさえ見えていた。
けれど、私は、長じるにつれて、自分の考えをあらためるようになった。
厳格な家系に生まれ育った父は、自身の秘密が他人に知られてしまうのを潔しとしなかった。まして、血の繋がった肉親に秘密を握られてしまったのは、このうえもない屈辱のはずだった。
父の感じた苦しみを思うと、かつての自分がとても恥ずかしく感じられた。そうして、私は、父がこれ以上屈辱を感じることのないように、父の秘密を墓場に持って行こうと心に決めた。
けれど、秘密は秘密のままで心の中にとどまってはくれなかった。
父を守ろうと堅く誓った日から20年の歳月が流れたある日、私は父の病床に呼び出された。
父は私を見ると相好を崩して言った。
「私はお前に秘密を知られてしまったことを恥じてはいない。むしろ、お前で良かったと思っている」
私は父の枕元に立って、父の最期の告白をきいた。
父は幼い頃から馬鹿にされて育ってきた。
祖父は女のように軟弱な奴だといつも罵ってきたし、祖母は自分よりも弟の方を可愛がったし、弟は自分より優秀でない兄を明らかに見下していた。そんな人たちに自分の本性が知られてしまうのは、死を宣告されるよりも耐え難いことだった。
だから、父は厳格な人間を演じ、心を鎧うことで、内なる衝動をひたすら抑え込んできた。けれど、それは幻想でずっと鎧われながら、父の心を確実に蝕んでいた。
「最後にお前に頼みたいことがある」と父は息も絶え絶えに言った。
私は父に顔を近づけて耳をそばだてた。
父の最期の願いは女として死ぬことだった。そうして、美しく変貌した己の姿を、余人に知らしめることだった。
私は父の願いを聞き入れることにした。そうすることで、父が苦しみから解き放たれると信じたのだった。
後日、父の葬式が営まれたとき、私は父の唇に母の口紅を引いた。棺の中で眠る父は、生きていた頃よりもずっと晴れやかな顔をしていて、この世のどんなものも醜く感じられるくらいに美しかった。
あの時の私は、父の秘密が余人の知るところとなって、私と父が本当の意味で親子になれたことに、大いなる喜びを感じていた。
父の葬儀を終えた後、私はかつて住んでいた駒込の自宅へ赴いた。そうして、12歳のあの日に忍び込んだ両親の寝室へ何とはなしに入ったのだった。
陰影が模様のように染み出した暗い部屋には鏡台が一つ置いてあるきりだった。私はその前に座った。そうして、バックの中から、母が生前に使っていた口紅を取り出した。あの時、父がどういう想いであんなことをしたのか、味わってみたくなった。
甘美な記憶はそこで途切れた。
母の口紅が喚起したそれは喪失感を完全には拭ってくれなかった。けれど、そこに残った父の余韻は私を懐かしくも温かい世界にとどめてくれた。
鏡には唇を朱に染めた私が映っていた。
私は、鏡の中にもう一つの世界の片鱗をとらえながら、自分と父が見えない糸で分かちがたく結ばれているのを、魂で感じた。