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パリ左岸の夕陽⑦

私が親父とお袋を伴ってフランスへ旅立ったのは、それから二週間後のことである。

わずか二週間あまりの間にどういう心境の変化があったのか、わざわざ書くほどのこともあるまい。

強いて言うなら、そこに感傷の入り込む余地は全くなかった。

私は、あくまでも、自分自身にケジメをつけるために、フランス行きを決めたのだった。

出発当日の朝、空は、私の決断を歓迎するかのように、どこまでも晴れ渡っていた。雲は風の吹くままに流れ、光の破片を含んでいたずらに輝くばかりだった。そういう風景の中で、私はありとあらゆる感傷から遠ざかることができた。

それは親父とて同じだったろう。

成田に向かうタクシーの中で、親父は、お袋の遺骨を胸に抱えながら、窓辺に映る澄明な空を、従容とした面持ちで眺めていたのである。

彼はきっと一切の感傷を捨てるつもりで、フランス行きを思い立ったのにちがいない。

私は図らずも親父の手伝いをすることになったわけだが、それは奇しくも私が果たすべき旅の目的でもあった。

親父はお袋との思い出に決着をつけたうえで、この世を去るつもりでいた。

そして、私も、それを見届けたうえで、命を絶つつもりでいた。

一切の感傷は穏やかな死の前では無意味だった。

だが、私たちは、今一度考えてみるべきだったのである。

感傷から完全に逃れられる人間など、この世にはいない。

どこにいても、何をしていても、感傷はその人間について回るのである。

それはまさにヘミングウェイが旧友に宛てて寄越した言葉のとおりであった。

私たちは互いに感傷を捨てるつもりで旅立ったのに、パリに辿り着いた時にはもう膨れ上がる感傷を抑えることができなくなっていた。それほどに、パリという街は、個人の感傷に訴えて余りあるものを、内包していたのである。

実際、パリは感傷そのものであった。

パリは中央を流れるセーヌ川を挟んで北と南に分かれ、それぞれは、パリ右岸、パリ左岸と呼ばれている。

右岸が代表的な観光エリアなのに対して、左岸は歴史的な建造物をいたるところに配し、文化芸術の爛熟たることを、いささか鼻にかけている。観光客が割合に少なく、作家や映画関係者といったスノッブな人種が目立つのは、その証左である。

ここを訪れる異邦人のほとんどは、そういったスノッブな事物や人種に触れて、己の無教養を暴かれてしまう。しかし、そういった空気の中で長い時間を過ごしていると、自分自身の内で、何か取り返しのつかないことが起きていることに気づく。

すなわち、それが感傷の目覚めである。

パリで過ごした時間が物語を生み、物語が感傷を生む。

すべての異邦人は、この街にやってきた時から、感傷の奴隷となるべく定められているのである。

もちろん、私や親父も、その例に漏れなかった。

私たちはリュクサンブール公園の近くに宿をとった。夕食までに時間があったので、付近を散策することにした。

リュクサンブール公園はパリ市民の憩いの場となっていた。ぐるりを囲むように建てられた百体以上の銅像、南端に整えられた噴水、そして、そういう情景に魅せられながら思い思いの時を過ごす人々、目に見えるものすべてが歴史の紡いだ永遠の連環と分かち難く存在しており、それがある種の侵しがたい静謐を生んでいた。

「母さんと初めてここで会ったんだ」

と親父は言った。

その時、彼は落ち窪んだ眼窩の内から優しい目を覗かせていた。私は、その中に、青年期特有の純潔を感じ取った。親父は、曇りなき眼でパリの静謐をとらえながら、永遠の昔に失われてしまった感情を、取り戻そうとしているかに見えた。私はそんな親父を嗤うことができなかった。何故なら、私自身もパリという街に復讐されていたからである。

「あんたの思い出話なんかに興味はない。それより、さっさと連れて行ってくれよ。俺に食わせたい料理があると言っていただろう?」

「最初からそのつもりだったよ」

親父は、自身の感傷を悟られまいとするかのように、そう言った。

「行こう」と言って、私は親父に手を差し出した。親父は「一人で歩ける」と言い張って譲らなかった。

庭園に散らばる疎らな影が次第に濃くなってきた。空にかかる太陽が西へ傾き始めていた。そのようにして、我々の人生にも黄昏が訪れつつあった。

我々はセーヌ川に沿って歩いた。川の面は、ほのかに赤らんだ空をそのまま映していた。遊覧船が小さな航跡を曳きながらやってきて、空の赤を一瞬だけ見えなくした。船上にはいくつもの人影があった。人々の表情は悲喜交交であった。橋の上からその様子を眺めていると、カメラを提げた男が私たちに気づいて手を振ってきた。私が振り返すと、男はカメラを我々に向けてシャッターを切った。

遊覧船を見送った後、私たちはサンジェルマン大通りへと向かった。その頃には燃えるような夕陽が辺りを赤く染め、建物の影が舗道に長く伸びていた。通りの中心には、かの有名なサンジェルマンデプレ教会があった。パリ最古の教会は、聖なる威厳を湛えながら、来る者を拒まない慈愛をも醸し出していた。そのような歴史的遺物を前にすると、悠久の歴史に抱かれているような、厳粛な気分で満たされてくるのだった。

教会の前を通り過ぎると、高級ブティックやカフェの櫛比する繁華な通りへ出た。通りはショッピングやディナーを楽しむ人々でごった返し、その賑わいは絶えることを知らなかった。

この界隈は今でこそ右岸のシャンゼリゼ通りと遜色のないほど栄えているが、かつては文学者や哲学者の集まるパリの知的中心地だった。その名残を辛うじてとどめているのが、彼らが足繁く通ったとされる、いくつかの老舗カフェである。

私たちは、そのうちの一つ、カフェ・ド・フロールへ入った。

⑧へ続く。

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