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短編小説「パリ左岸の夕陽④」

その時親父の言った言葉は良い意味でも悪い意味でも私の人生を狂わせることになった。それからの私は、料理の魔力に取り憑かれ、奇しくも、親父と同じ料理人の道を志した。

沢村の一件から数年が経って、私はフランスへ留学した。私は自分の道を切り拓くために親父の力を借りなかった。フランスへの渡航費用や留学に係る諸経費はすべて自分の力で稼いだ。私は、親父が生涯で成し遂げられなかったことを、自分自身の力で成し遂げようと考えたのである。それは、すなわち、料理の力で万人を幸福にすることだった。

出発前夜、私は何気なく入った親父の書斎で例のヘミングウェイの文章を読んだ。私の青い心にまだ見ぬパリへの憧憬が灯ったのはその時だった。そして、それは、ヘミングウェイがいみじくも言ったように、生涯を通じて、私という人間について回ることになったのである。

フランスへと渡った私は、親父と同じくパリの三ツ星レストランで修業に明け暮れた。言葉の壁に苦しめられ、理不尽な差別も受けたが、辛いと思ったことは一度もない。私には、自分の力で万人を幸福にし、親父を超えていけるという想いがあった。そのような強い志があったればこそ、厳しい修業を乗り越え、理不尽な仕打ちにも耐えることができたのである。そして、ここで培われた経験は、私を、押しも押されもせぬ立派な料理人へと変貌させた。私の修業時代はこのようにして光陰の如くに過ぎ去っていった。

それから、十数年後、一人前の料理人となった私は、万感の想いを胸にフランスを後にした。そうして、日本に帰国すると、学生時代の友人と組んで青山の一等地に自身の店を構えた。わたしたちの店は最初こそ流行らなかったが、じわりじわりと顧客を獲得し、数年後にはミシュランで紹介されるほど話題を集めた。

その当時、競業していた料理店は、わたしたちの勢いの前に為す術もなかった。その中には親父の経営する店もあったが、わたしたちが躍進するのとは反比例に経営が左前になっていた。私の中に次第に驕りが芽生え始めた。私はあの親父を超えることができたのだと確信した。そして、その確信は永久に続いていくだろうという根拠のない自信さえ生まれた。しかし、そんなものはただのうぬぼれに過ぎなかった。

私は料理の腕には自信があったが、経営には全く明るくなかった。金の流れに関することはすべて共同経営者の鈴木に任せていたが、鈴木は、私が経営に口を出さないのを良いことに、確実性のない分野に投資をし始めた。この鈴木の裏切りが発端となって、店の経営は次第に傾き、私が気付いた時には返済し切れないほどの多額の負債が膨らんでいた。そして、借金を作った当の鈴木は責任のすべてを私になすりつけて行方をくらましたのだった。

このようにして私はすべてを失った。その時の私には、青年の心をときめかせたパリへの憧憬はすでになく、また、生きていく気力さえも残っていなかった。私はすべてを整理したあとで命を絶つつもりでいた。疎遠になっていた親父から連絡があったのは、折しも、そんな時だった。

⑤へ続く

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