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短編小説「パリ左岸の夕陽①」

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」

親父の書斎にあったヘミングウェイの本にそんな文章がつづられていたのを、昨日のことのように思い出す。聞けば、ヘミングウェイが旧友に宛てて書いた手紙に、そのような文言があったということである。件の文章には赤のマーカーでご丁寧に線が引かれてあり、親父がパリという街にかなりの思い入れがあったことが、ありありとうかがわれた。

親父は、1950年代から60年代の終わりまで、パリに料理留学をしていた。その頃のパリと言えば、サルトルとカミュが実存主義の解釈をめぐって対立し、さらには、五月革命によってドゴールが退陣に追い込まれ、思想と政治を取り巻く世界が劇的に変わっていた。そんな激動の時代に青春を過ごしたのだから、親父がヘミングウェイの回顧趣味に共感を覚えたとしても無理はない。

親父は60年代の半ばにたまたまパリに遊びに来ていたお袋と知り合った。場所はパリ左岸にあるカフェ・ド・フロールという有名な老舗店だった。二人はたちまちのうちに恋に落ちて、その後、周囲の反対を押し切って結婚した。そして、親父がパリでの料理修行を終えて日本に帰国を果たす頃には、お袋のお腹に新しい命が宿っていた。それが現在の私である。

私は親父と親子らしい会話をほとんど交わしたことがない。なにせ、親父は、私が物心つく頃には都内の三ツ星レストランでシェフを任され、家庭を顧みない生活を送っていたからである。実際、親父は、職場と家を往復するだけで、お袋と夫婦らしい会話をせず、もちろん、息子である私にも父親らしいことを何一つしなかった。そんな人間を父親と認識できたのかどうか、わざわざ説明するまでもないだろう。

とは言え、私は親父を軽蔑すれども憎みはしなかった。親父を憎んだとしても、心にできた空白が埋まるわけではなかった。無力な子供にできた唯一の反抗と言えば、親父の所属する世界に決して入っていかず、また私とお袋の所属する世界に親父を決して入らせないことだった。しかし、その試みは結果的に失敗した。

私は長ずるにつれて、図らずも、父親の所属する世界に足を踏み入れることになったのである。

②へ続く

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