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【ショートショート】HOME

 その時私が乗り込んだ電車はずっと昔から走り続けていたようで、長年の煤に覆われていた。

 発車時刻を一時間過ぎても予定の電車は一向に来る気配がなかった。日本の端っこに取り残されたようにぽつりと存在する海町なのだから、そんなことは日常茶飯事だろうとも思ったけれど流石に遅い。休日であれば一部の物好きな観光客で賑わうその小さな町も、週のど真ん中の平日では、他の乗客の姿は一人も見当たらなかった。簡素なホームの上にひょろりと生えたようなトタン屋根の下で、冷たい風と交互に通り過ぎていく無機質なアナウンスの音を聞きながら、私はどんどん心細くなっていった。

 少しずつ暮れていく太陽をぼんやりと眺めながら、もし今日帰れなくなったらどうしようかな、今から泊まれる宿を探して、果たして見つかるのだろうか、などと考えているうちに、ここ数日間で使い古した身体は、肩にかけた大きな荷物と一緒に固く冷たいベンチにぐったりと沈んでいった。ここから電車に乗っても、この先の町でまたいくつか乗り換えをしなければいけないし、その電車の数もあまり多くはなさそうだ。ベンチの背もたれには、水道工事業者と、コカコーラの広告が印刷されていたが、文字は擦り切れていてほとんど読み取ることができない。

 すっかり冷え切ってしまった缶コーヒーのキャップを無意識に開けたり閉めたりしながら、引き返そうか、どうしようかと悩んでいると、先ほどまで定期的に流れていた機械的なアナウンスとは違い、生身の人間らしい男性のアナウンスが流れてきた。
 私は屋根の隅にへばりついたようにくっついている黒く煤けたスピーカーを介して、その男性から個人的に話しかけられたような気がして、どきっとした。もうすぐ臨時列車が到着するのだという。

 ――臨時列車?こんなに乗客の少ない路線に、そんなものを走らせることなんてあるのかと思った。それでも、有名じゃないけどやっぱりここは観光地なんだと、あまり気に留めなかった。そんなことよりも、臨時列車のおかげで乗り換えが二つもいらなくなったようで、これで無事に帰れるとほっとした。

 すっかり安心した気持ちで中身の無くなった缶コーヒーをくたびれたショルダーバッグにしまっていると、電車の走る音がした。思わずベンチから身を乗り出してみたが、寒々しい冬の海と真っ白い霧が広がるばかりで電車の姿は見えない。それでも確かに電車は近づいているようだ。オレンジ色の大きな光が、薄暗くなり始めたホームを一瞬強く照らし、思わず目を瞑ってしまった。役割を全うし終えた老人が椅子に深く腰掛けるように、空気を吐き出す大きな音ともに電車は到着した。赤茶色の、四角い胴体にゴツゴツとした突起のついている、教科書とかいつか見た古い映像なんかに出てきそうな、そんな電車だった。

 電車の内部は温かいオレンジ色の灯りに満ちていて、目の前に停車した車輌のドアがゆっくりと開かれた時、古くからの友人の家に招かれたような、どこか懐かしい安心感があった。内装のほとんどが木製のようで、ほのかな木の香りが、ホームを囲う霧に濡れた葉の匂いと混ざりあった気がした。床には厚い絨毯が敷かれていて、長い時間をかけてたくさんの人が踏んで行った形跡が見えたが、一歩足を踏み入れると、それはふかふかと柔らかかった。

 中には数名の乗客が乗っており、皆身軽な格好をしているので地元の人たちかと思ったが、長い移動をしてきたのか、目を瞑っている人が多い。
 私は外の景色が名残惜しく、横向きに座れる座席に腰を下ろした。この先もうここに来ることは無いかもしれない、そんな気がしたからだ。しかし、たっぷりと奥行きのあるその座席は、それまで凍てつくような緊張感に埋もれていた眠気を、ゆっくりと引き出していった。何かに吸い込まれるように瞼が閉じられるのと同時に、列車はまた、大きな音を立てて発車した。

 古い車体はその身体を、錆びたレールの上に少しずつ這わせ始めた。堅く、濃い現実味を持って徐々に速度を上げて進んでゆく。ガタン、ガタンという振動が鳩尾から喉元の辺りまでを突くように、直に身体に響いている。遠い昔、母に寝かしつけられた時、背中に感じていた心地よい振動を、頭の端の方で微かに思い出していた。すでにぼんやりとした意識の隙間に、車内のアナウンスが流れ込んできた。

「ご乗車、ありがとうございます」

 まどろみの中で響くその声は、温かな暖炉と、緩やかに渦を巻くホットミルクを思わせた。そして淡々と、この列車の行き先と、主要な駅の予定到着時刻が告げられた。

「運転手はコクボ、車掌はトマリです。なおこの列車は――」

 続くアナウンスは、渾々と深みを増してゆく闇の中で混ざり合い、その姿は留まることなく煙のように形を崩して消えていった。

 ――車掌のトマリ。彼の落ち着いた声はその闇の中で響き続け、旅の終わりの乗客たちを、夢の中に運んで行った。私は膝に置いたショルダーバッグの上に腕を組み、顔を沈めた。

 真っ暗い夜の海を、走っていた。もう振動はなく、レールのない闇の中を滑らかに進んでゆく。その軌跡は、波のように上下にうねる。

 また、始まる。私はすでにコントロールから外れている意識をぼんやりと見つめながら、静かにそれを受け入れた。

***

 「車掌のトマリ」
 その男は揺られる車掌室の中で、片手に持ったマイクに向かって静かに語りかけている。もう片方の腕でしっかりと手摺を握り、彼の目は車窓の外に向けられていた。年季の入った細い銀縁の眼鏡の下には深く光る瞳が鎮座し、筋張った頬には、静かに波打つように皺が刻まれている。彼の身体は長年連れ添ってきた電車の進む速さと、自らの身体を中和させるように、彼特有のリズムを纏っていた。

 素早く流れていく景色の中に、彼は何を見ているのだろうか。彼の左手にしっくりと馴染んだ手袋の下には、彼の眼鏡によく似たシルバーの指輪がはめられており、彼の家ではその頃、一人の少年が彼の帰りを待っていた。

 その少年は今、彼のために夕食を作っている。彼の帰りはいつも朝方になるのだが、彼にとっては遅い夕食だ。その日は人参とじゃがいもの入ったシチューを作っていた。少年にとって、彼の家の鍋はとても大きく、彼が少年のために用意した踏み台に乗り、両手を前に伸ばしておたまでかき混ぜていた。
 その少年は、歳の割に大人しく、賢かった。彼はそんな少年の様子を案じていたが、少年に対して上手い言葉をかけてあげることができなかった。幼少期の自分がどんな言葉を大人から掛けてもらいたかったかと考えたら、何も言わないで欲しいと思っていたのを彼は思い出したからだ。

 それでもその少年は、世界を愛し、そして世界に愛されていた。少年自身の人生と、他の子どもたちのそれと比べるようなこともなかった。ただその少年は、これから数時間後に帰ってくる彼のためにシチューを煮込み、自分もそれを食べて、温かいお風呂に入り、布団に入ることだけを考えていた。予定通りやってくるであろう、明日に備えて。
 少年にとって彼との生活は守るべきものであり、少年は彼に対しても、自立した一人の人間でありたいと思っていた。だから二人は言葉をほとんど交わさずとも、互いの聖域に対して敬意を持ち、自らの宇宙の中を生きていた。

 いつか、少年は彼の家を出ていく日が来るだろう。そして、少年はもっと大きな世界を見ることになるだろう。あの少年のことだ、必要なものだけを鞄に詰めて、きっと迷いのない足取りで冒険への一歩を踏み出す。彼はその時を想像すると少し切ない気持ちにはなるが、その日が来たら少年の未来と、その選択を祝福しようと決めていた。

 彼は少年と共に過ごすようになって、色んなことを受け入れられるようになっていた。運命と共に生きた、その日その日をただ懸命に生きた幼少期の自分を思い出すことができたのだ。
 少年と出会う前の彼は、悲しみを伴う様々な出来事が、冷たい雨風のように繰り返し彼の頬を殴り続け、それによってこれから迎える未来も、当然のように同じような時間が繰り返されるだけだろうと思っていた。むしろ、希望を見出す気力も、体力も微塵も残っていないように思えた。だから残りの人生を未来に嘆き、過去に悲しみ、一人妄想の中に沈んでいたいと思った。

 しかし、今は少し違う。過去は過去であり、それは実際に、現実的に彼の身に起こったという、ただそれだけのことなのだ。様々なことを完全にではないが、ある程度は諦めることができるようになった。それらの出来事を、過去の海の中で好きに泳がせておく、という諦めだ。

 彼は今、ただ車窓の外を眺めている。そこに、彼の親しんだ景色が流れているからだ。彼の様々な思いと共に、ずっと眺めてきた景色が。

***

 他の電車とすれ違ったようで、背後の窓が大きな音を立てて震えた。すっかり眠っていたようだった。

「次は○○駅、○○駅、終点です。お出口は左に変わります」

 ――あれはトマリさんの人生だったのだろうか。彼の人生を覗いてしまったのかと思ったが、それは本当のところどうなのかわからない。電車の外に一歩足を踏み出すと、もう彼の声は聞こえなかった。
 外は真っ暗なのに、私はなぜだか燃えるような夕焼けを思い出していた。

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