Well-Groomed、マナー、ルッキズム、コンプレックス広告そして美容とファッション
歳を重ねるにつれ、顔から赤みが抜けていくという。
紅潮した頬の赤み、唇の赤み、こうした赤が顔から抜け落ちていく。
とあるメイクさんが言っていたのだが、顔には白(肌)黒(毛)そして赤の三要素があり、このバランスを取ることがメイクの基本なのだそうだ。
確かに母もある時期から口紅を差さないと元気がなく疲れて見えた。
ファンデーションで目の下のクマやシミを隠すと若々しい印象になることも本当だ。シミは年齢を重ねたサインでもあるから。
ルッキズムが良くないことだという認知が広がって、他人の容姿に関してネガティヴな発言も、ポジティヴな発言も”控えるが吉”という認識が浸透しつつあると同時に、あまねく人々にWell Groomed、つまり自分に対して手入れがなされているかどうかをあけすけに求められるようにもなっている。
「容姿端麗でなくても、清潔感が大事」というように。
それは結局、ルッキズムの範疇から出てはいない。
日本は単一民族なので、肌の色の違いによって取り扱いを変えられる場面に出くわすことは少ないが(あるけど)依然、就職面接では髭を剃り、ピカピカの革靴を履き、女性ならば一定の若さを保持するレベルの化粧をして、パンプスを履くことが要請される。「他人に対して不快感を持たれないレベルのケアを自分に対して行う」ことを怠れば、それは本人の怠慢であり、それを補って有り余るほどの才能がない限り、選考から漏れる可能性が高い。
もちろん、こうした選別は自分の恋人や配偶者等の面接である場合は、ルッキズムだとして非難するものではない。なぜなら、それは当人同士の自由な範囲での性癖の選択とすり合わせであり、意中の人の伴侶に選ばれなかったということは悲しい出来事ではあるけれど、社会的に不当な取り扱いとまではいえない。
最近、ファッションや美容に関する記事を読む時に、しばしばこのWell Groomedが「マナー」といったような、一見多くの人と共通認識があるかのようなぼんやりとした言葉に包みながら、他者をじわじわと脅迫しているかのように見えている。
実際にそうすれば若々しく見えることと、そうすべきことは違う。「シミを隠すと若く見える」から「そうすべき」は単純に接続しない。美容業界ではこの「老けて見える」ことと「清潔感がない」ことは容易く接続される。
それに「シミを隠すと若く見えると伝えること」と「シミがあると老けて見えると伝えること」は、同じようでいて全く異なる。関係性ができていない相手に後者のような伝え方をすれば、トラブルを起こしやすそうなのは理解しやすい心情なのではないだろうか?
不特定多数に向けてこうしたデリケートな内容を不用意に発信するならば、シミを隠さない側が、対処できるのにしていない(しなかった)怠慢であるという意味も生じるだろう。「コンプレックス広告」に似ている。
ファッションもこの美容と同じ負の文脈を引き継いでいる。それを職業としたり、それになんらかの矜持を持ちたい人たちによって、そうした強い文言が使われやすいように思う。もちろんnoteでも散見されるし「大人が着ると”痛い”服」とか「大人のすっぴんは”だらしがない”」とか「その鞄だと”貧乏そうに”見える」といった攻撃的でキャッチーな言葉は人の不安を煽り、PVを稼ぎやすいのだろう。
その商品を売りたい人が、その素晴らしさを伝えたい人が、利点を伝えるべき場面で、脅迫的な言葉を用いて「そうでないほう(他者製品、メイクをしない人、シミを隠さない人などなど)」の選択肢を潰していくことにがっかりするのだ。少なくともそういう人から商品を買いたいという気持ちに私はなれない。「これは環境破壊を促す商品なので、こちらを使おう」というようなものではないにも関わらず、なぜ、こうするとより楽しいではダメなのだろうか。下手な広告はまるで言葉の檻のようである。
こうした言葉があまりに溢れているために、人はそれに慣れ内面化し、全く関係のない他人にまで理不尽な要請をするだろう。もっというならばWell Groomedでない人や、オシャレでない人の人権がそのぶん減っているかのように振る舞い出すのではないだろうか。
そんなおおげさな、と思う人がいるかもしれない。
しかし、こんなデータがある。
人々の意識の闇の部分は弱者に皺寄せが来やすい。2018年の統計ですでに日本人の6人に1人が相対的貧困状態にあることがわかっており、近年の日本の貧困の特徴的は、外から見えづらいという点だ。
見えづらいとはどういうことかというと、自分の食事を削って子供に洋服を与える親がいる。生理用品が購入できないのに、スマホの通信料になけなしのお金を充てているというような、外から一見してわかりにくい貧困が広がっている。それは、生きるための食事より優先度が高い事柄が他にあるからである。子供が汚れた服を着て登校したり、スマホが使えないことのほうがコミュニティで安全に生きられないのだ。
少し前に、髭剃りと、小さな石鹸をコンビニから盗んで逮捕された若者がいたという。それはニュースにもならない事件であるが、窃盗の動機は「就職面接に行くため」だったそうだ。伸びている髭では、整えられていない姿では、採用されないと思ったからだ。世間から一律のWell Groomedを要請されていると知っているからだ。食べるにも困る状態の清潔な身なりの人が増えているため、助けを求めることがおおごとになってしまう。おおごとになるから本人が助けてと言いづらくなる。6人に1人がそうした中にいる以上、そしてこの状況が改善する根拠がまだない以上、貧困が全くの他人事である人間は、ユニクロやソフトバンクを経営していなければほぼいないだろう。食に優先する脅迫的なWell Groomedが出来上がったのは何故なのか。
セルフネグレクトといって一時的にUn-groomedにならざる得ない人もいる。グルーミングにもそれぞれに個別の事情もあるだろうし、加減もあると思う。私自身もメイクやファッションが大好きだし、そこへかける時間も情熱も多いという自覚もある。もしかするとWell Groomedなことで何かしらの利益を得ているのかもしれない。しかし、メイクをしない人、ファッションに興味のない人を否定したり、居心地の悪い思いをさせるのは嫌だ。それはあくまでも個人差があって、個人の選択の範囲内の事柄であるはずだ。
とはいえ、公共の場に出向く際に常に自分のためだけに装っているわけではないともいう。
だから、ファッションや美容にはTPOというものがある。
よく言われるのは、お葬式で華美な衣装を着ないこと、人に呼ばれた結婚式で白の服は着ないこと、お寿司屋さんで強い香水を纏わないこと、知人の家では裸足で歩かないことなどなど。こうした形式は絶対的なものではなく、合理性の乏しいものは淘汰されていくし、新しくできるものもある。
ファッションや美容は自分の気持ちをコントロールするだけではなく、その場にいる相手への敬意を表すアイテムにもなるし、ルールがあるからむしろ楽しいという面もある。ルールは人を縛るもの、自分が好んでそれに縛られるならともかく、様々な背景の他者に要請する場合は慎重になるべきだ。
そして私は生きることに優先するTPOなどないと思う。
脅迫的な言葉を用いて何かを宣伝したい人、そうした宣伝を避けて通れない脆弱な個である私たちも「そのくらいマナーでしょ?」と相手に言いたくなった時に、自分が無自覚に相手に要請しているものについて、立ち止まって考えて良い時期に来ていると思う。ふんわりとしていても差別意識は、寄せ集まると人を殺したりもするのだ。
もし「全人類買うべき!」なファンデーションがあったとしたら、まずは全人類にあなたが買ってやるのはいかがだろうか(提案)。
あまねく新卒がリクルートスーツを着用しなくてもいい社会を作るまでに、今日も明日も食べていかねばならない我々は、スーツも着るし、髭も剃るし、パンプスも履く。メイクを強制されたとて、たかがメイク。死ぬわけじゃない。それでも、その要請そのものがおかしいことまで忘れてやる必要はない。