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批判される学校英語、その学校のやり方を踏襲する大人たち

少し前まで「学校の英語は教育方法が色々とアレだなぁ」と思っていたのですが、最近は考えを改めました。いえ、「やっぱり学校の英語は基礎が身につくから素晴らしい!」とかそんなトンチキな思想にスイッチしたわけではございませぬ。

「もう学校関係ねぇなこれ」という考えに変わったというだけのお話です。

というのも、どうも学校の英語教育カリキュラムというものはどんな形であれ批判を免れ得ないようであり、またカリキュラムがなんであれ身につかないものは身につかないのであり、そして最終的には試験に辿り着いてしまふということに思い至ったからです。

注: この記事は私の恐ろしく雑な推論と印象論をベースに書かれており、実際のカリキュラムや学校の状況等がどうなのかはよく知りません。個人の感想であることを前提にお読みください。

①カリキュラムがどうであれ批判されてしまう問題

私が現役で中高生をやっていた頃、おそらく学校カリキュラムに向けられる批判の内容は「文法や訳読が中心で話せるようにならない」だったことでしょう。

私は自分が大学を出てから最早教育業界とは無縁の生活を送ってきたので最近の学校教育がどうなっているのかはほぼ知りません。

しかしながら、数年前に見ていたTwitterとか最近noteで見る記事、さらに自分で大学入学共通テストの英語を解いてみた感触などをまとめてみると、おそらく昨今の批判内容はこうです。

「会話中心のカリキュラムにしたせいで文法学習が疎かになった」

大学入学共通テストの英語リーディングは名前の通りリーディングにオールイン、文法とか発音とかその手の問題は全廃で全て長文読解になっています。私はこれを歓迎したのですが、思ったほど評判は良くないようです。問題の量が途方もないので、これを「共通テストのTOEIC化」と評する向きもあるようです。

そんなわけで、最近のカリキュラムは英会話などという曖昧な概念に振り回されて文法を疎かにしていてけしからん、というのが現在の潮流のようです。

要するに、何をやっても結局違う方向から殴られるということです。

②問題はカリキュラムより意欲

ぶっちゃけた話、語学(に限らないかもしれませんが)は学習する本人がやりたい、身につけたいと思ってない限りは基本身に付きません。中学高校と私に施された美術や音楽の授業は完全なる無駄でした。だってそんなん興味なかったし多分氏ぬまで興味ないし😪

英語も同じで、中学生や高校生が「これ別にいらなくね?」と思っていたらカリキュラムがなんであれ大して身につくことはないかと思われます。受験のために苦行的にやったところで、試験が終われば忘れます。

逆に、英語学習に意欲的な生徒は多分学校にアレコレやらされなくても自分で勝手に覚えると思います。私はバイオハザードの英語の解読に夢中で学校の文法用語とかはよく分からないまま大学を卒業し、特に修正の機会もなく今に至っております😂(でも何故か「接続法現在」とかフランス語では知ってるというよく分かんないことになってる)

むしろ自分で好きにやりたい生徒にとってはテスト勉強とかの縛りは邪魔なのではないかと個人的には思ってるんですが、実際の生徒達はどう思っているのでしょう。私は興味ない授業の時はめっちゃ内職してました

また、noteを見ていると「学校に行ってた頃の英語の成績は全然ダメだったけど、自分で海外に出てみてそれがきっかけになって英語の学習を始めたらうまくいった」とか「学校の英語の成績は低かったけど、大学出た後に好きなように英語に触れてたら出来るようになった」とかそういう人もたくさんいます。

結局のところ、馬を水辺に連れていくことは出来ても水を飲ませることはできないのです。

③最終的には試験勉強に辿り着く

最後に、カリキュラムがなんであれ最終的には受験勉強に辿り着きます。正直英語はどちらかというと体育や音楽に近いものだと思っているので、そもそも試験科目にすること自体私にとっては既に意味が分からなくなりつつあるのですが。

「これからの時代、自転車に乗れなくては困る」と言いながら自転車の教本を一生懸命テストして、「卒業生のほとんどが自転車に乗れない、何故だ」と言っているのと同じような光景に見えます。テストの方式をどれだけ変えようが結果は同じに思えます。

以前いくつか記事↓を書いたのでここでは深入りしませんが、個人的に試験勉強って語学を身につける上でそんなに役に立たないと思ってます。

(外国語の能力を上げた結果、ついでに試験の点数も上がるというのは意味があると思いますが、試験の点数を上げるためだけにする勉強が外国語の能力向上に寄与するのかという点については、私は懐疑的です。)

なんやかんやで大人も学校の方式を踏襲する

そんな感じで学校英語は批判に晒されがちだったりするのですが、私がnoteを見ていて感じるのが、TOEIC等の試験信仰と「中学英語」などの学校カリキュラムを中心とした概念です。

その辺の書店に行くと洋書は一冊も売ってないのに常軌を逸した量の英語学習本が売っていたりして、日本では多くの大人が「英語=学校でやってた勉強の延長」と認識していることが伺えます。

学校を出て自由に学習方法を選べるようになってなお、学校のやり方に追従しようとする人が多いというのは個人的に謎です。学校を出ても英語が出来るようになってる人は少ないのだから、そこは学校と違うアプローチを検討するところだと思うのですが。

まとめ

noteを徘徊して謎に思ったことをきっかけに記事を書き始めると毎回こんな感じになってしまいますね。引用もメチャクチャ多いしそろそろこの手の記事は書かなくていいか😦

念のため、冒頭に張った注意書きをもっかい貼っておきますね。

注: この記事は私の恐ろしく雑な推論と印象論をベースに書かれており、実際のカリキュラムや学校の状況等がどうなのかはよく知りません。個人の感想であることを前提にお読みください。

とにかく試験信仰がすごすぎて、これが俗にいう「モヤモヤする」というやつでしょうか🤔 人様のやり方に干渉するつもりはないのですが、個人的にはどうしても、もっと肩の力抜いてやればいいのにと思ってしまいます。


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