母親の話
私は6年前に母を亡くしました
人生最大の衝撃でした
少しだけ思い出話をさせてください
私は3姉妹末っ子です
1番上の姉とは7個も離れています
2番目の姉とは2個違い
私が小学低学年の時に2番の姉が病気になり、母は付きっきりで病院で世話をしていました
その間私は1人で家にいることが必然的に増えていきました
私の父はどうしようもないクズ人間です
ギャンブル、借金、お酒が入れば暴言が出るような人間
いわばモラハラですね
怒号が響くたびに私は息が苦しかったのを覚えています
こんな父が私の事なんて気にする事はありません
自分だけ外食して夜遅くに帰ってくるの繰り返し
私はこの時期に父が家にいた事や世話をしてくれた記憶はありません
小学低学年の私を面倒を見てくれていたのは1番上の姉だと思います
これも記憶が曖昧なのです
何故なら、姉は高校生でアルバイトを2個掛け持っていたからです
記憶にあるのは私がいう事を聞かない時に大声で怒られたことと髪の毛を引っ張られ投げられたことだけです
思春期まっただ中だったので、言うことの聞かない奴なんてムカついて当然だと思います
寂しいとも言えず、1人家にいる事が怖かった記憶が焼きついています
数年後には姉の病気は完治し、1人で過ごす時間は無くなりました
私の母は、人にすごく好かれる人でした
困ってる人がいると手を差し伸べるような人です
私が中学生のころ母に癌が見つかりました
元気だった母の姿は数年だった気がします
あとは、癌の治療で通院、手術をしてる姿しか私は思い出せません
だから、元気な時に旅行行った記憶も出かけた記憶もないのです
看護師として働き出して、お金がある程度貯まった時から、私は母が元気だった時にできなかった旅行によく連れていく事が増えました
母の人生は父との確執がありながら、3人を守るために昼夜問わず働き詰めだったと思います
自分の時間もほとんどなく、ようやく3番目である私が社会人になった時には闘病生活に入っており、ますます好きな事ができなかった
そんな事を思うようになり、母が行きたい事やりたい事を叶えてあげようと思いました
看護師である以上、姉たちと比較して体の変化、そして、待ち受ける結果は早々に見えていました
ちょうど私が異動命令が来た時期でした
私は今の部署を続けるか異動するか悩んでる事を母に伝えた時に満面の笑みで背中を押してくれました
これがきっかけで私は異動を決め
今ではこの選択で正しかったと心から思います
異動して研修してる最中でした
母の病状が悪化している事を察した私は、渋る母をほぼ強引に病院へ連れていきました
案の定その場で入院となりました
数ヶ月前からもう治療がない事は、言われていました
母に最後をどこで過ごしたいか、私は確認していました
もちろん在宅とは言っていましたが、そうなると今まで通院していた病院から在宅医に変わることになります
これに対して母は頷く事は最後までありませんでした
そんな中でいよいよ最後が近づくと言う時期がやってきてしまったのです
病状に関しては、私から姉たちに噛み砕いて説明をし、病院で過ごすか在宅に返すか、毎日のように話をしました
結論として、病院で看取る事を決めました
母が何故渋っていたのか、それは、何十年と通い続けた病院の中には、母が築き上げてきた人間関係があり、離れるのが寂しかったのです
結論を出してから、私たちは病院で付き添う事を始めました
夜は母に何かあると心配と姉たちからの希望があり、私は夜だけ母に付き添う事になりました
病状の進行から苦しくなる時間が増え
私は姉たちに鎮静をかける事を提案し、主治医に伝えました
この選択は間違えではなかったと思っています
何故なら、人が苦しむ姿など一般人である姉たちには負担になるからです
入院してから数週間で母は息を引き取りました
私はポッカリ穴が空いた状態となり、最初の数週間は何もできませんでした
姉たちが支えてくれたおかげで、今は母の死を受容し、母が喜んでくれた部署で働き続ける事ができています
社会人になってから母と一緒に過ごした時間はとても短く、何も恩返しできなかった気持ちは今もありますが、あの時自分ができる精一杯の事をしたと思えています
人はいつ亡くなるか分からない
だからこそ、悔いのないように関わってほしいなと思います
これが私の母との思い出です