『SLAM DUNK』のハルコさんが流川に憧れる生物学的理由/どうして不良は無くならないのか
ある日、小6の息子が母親にこんな質問をしていました。「ねえ、中学に不良っているの?」
息子が母親にこんな問いを発した理由は、私と息子の『SLAM DUNK』話に起因します。最近、我が家では『SLAM DUNK』の単行本を買ってそろえており、『SLAM DUNK』がちょっとしたブームになっていたのです。私も10代の頃に『SLAM DUNK』を愛読した手前、時を隔てて息子が『SLAM DUNK』を夢中になって読む姿を微笑ましく思いました。「どの試合が面白かった?」「どのキャラクターが好きだった?」などと息子と『SLAM DUNK』について語り合ったのです。その語り合いの中で、私は息子に「中学になったら不良に気をつけな」と言いました。この発言は、三井寿が湘北バスケ部に殴り込みに来たときの場面を念頭に置いてのものです。全国大会出場へ向けて練習を開始する湘北バスケ部。その体育館に外履きで乗り込む三井寿や鉄雄たち。桜木軍団の加勢、ゴリの登場、小暮の回想。これらの場面には、不良という生き物が多く描かれています。半分笑い話のつもりで私は「中学になったら不良に気をつけなね」と言ったのですが、小心者の息子は私の言葉が気になっていたのです。男どうしだと虚勢を張りたい気持ちがあり尋ねられないところ、本心を打ち明けられる母親に聞いたのでしょう。「ねえ、中学に不良っているの?」と質問したのです。
母親が息子に対して何と答えたのかは聞こえませんでした。もしも私がこの質問に真面目に答えるならば、「もちろんいる。不良は、いつの時代もどこの地域でも無くならない。なぜなら、不良とは幸福を得るために付いて回るコストのようなものだから」と答えていたでしょう。この記事は、どうして不良な無くならないのか、という問いに答えるものです。
ところで、我々はどうして不良を嫌うのでしょうか。不良が近くにいたら、多くの人が困るでしょう。ベターな例を出しますが、例えば電車に乗っている時に気合いの入った若い不良グループが近くのドアから車内に入って来たとしたら、大抵の人はその不良グループから離れようとします。反対側を向いたり、席を移ったり、隣の車両まで移動するはずです。離れようとする理由は、「彼らが怖い」という恐怖心からというよりは、軽蔑心があるからではないでしょうか。「関わりたくない」「近くにいられると不快」「自分もああだと思われたくない」なんてことを多くの人は思うはずです。我々は、基本的に不良を忌み嫌い、バカにするのです。「自分は不良が好き」あるいは「不良文化が好き」という言う人もいるにはいますが、そのような人はどこか自虐的に「不良が好き」と言っているように感じます。基本的に我々は、不良をに対してバカにする気持ちを持っているのです。
どうして不良をバカにするのかというと、それは彼らがわざわざバカげた行動をとっているように見えるからです。不利益な選択をしているように見えるからです。吸わなければ健康でいられるのに、わざわざ体に有害なタバコを吸う。真面目に授業を受けていれば成績が上がり有利な条件で進学できるかもしれないのに、授業をサボり仲間との語らいに時間を使う。致命的な傷を負うかもしれないのに、他者と暴力で競い合う。私は以前、高速道路のゼブラゾーンにたまっている不良を見たことがあります。高速道路の路肩に自分たちの車両を止め、ビュンビュン走っている他の車に睨みを効かせながらお茶を飲んでいました。高速道路を運転している時に視界に入った光景です。どれもバカげた行動に見えますよね。いっときの快楽を優先し、人生を長い目で見た場合の俯瞰に欠けている。無駄にエネルギーを注ぎ、本来エネルギーを注ぐべき対象を見ていない。しかも、自分たちのそんな行動をアピールするかのように目立とうとする。バカげたた行動をしているくせに優越感・虚栄心の塊のように見えるから、我々は不良を嫌うのです。
けれどこれら不良の行動は、私を含め多くの人が思っているように必ずしもバカげた行動とは言えません。実は、不良の行動とは理にかなったものなのです。というのも、バカげて見える不良の行動の先には、幸福が控えているからです。不良とは、幸福を求める我々人間が選択せざるを得ない合理的行動なのです。
我々人間は、繁殖機会が高まる活動に幸福を感じます。繁殖機会が高まる活動とは、「子どもを作りたいと強く感じる相手の気を惹き、自分の元にとどまってくれる確率が上がること」です。「Aという行動をすれば、好きな相手の気を惹き、自分の元にとどまってくれる確率が上がるだろう」と思うとき、Aという行動に幸福を感じるのです。例えば、床屋や美容院に行って自分の容姿が変わることにウキウキするのは、自分の容姿が魅力的に変わり、確率が上がるだろうと思うからです。スポーツで一生懸命に汗を流すのが楽しいのは、自分のスキルが上がったり体が頑強になるからであり、そのことによって繁殖の機会が増えるだろうと予想するからです。学力テストで一桁が誇らしく思うのは、それによってより有利な条件の学校に進学できたり就職できたりと、自分の魅力が増すであろうことの見通しがつくからです。
繁殖機会が高まる活動と言っても、実際に繁殖機会が高まるときに幸福を感じるのではありません。現実として繁殖機会が高まったときに幸福を感じるのではなく、「こうすれば繁殖機会が高まるだろう」と予想されるときに幸福を感じます。実際に旅行しているときよりも、旅行に行くまでの方が、ワクワクして気分が高まりますよね。それと同じです。あるいは、「付き合うよりも付き合うまでが楽しい」とはよく言われること。実際に手に入ると、慣れが訪れます。脳内の幸福感物質の分泌にブレーキが掛かるので、高揚感は永続しないのです。
また、繁殖機会が高まることを本人が意識しているかどうかは関係ありません。「異性の気を惹けるだろう」とか「魅力的に周りには映るだろう」と本人自身は意識していないことも往々にしてあります。例えば、野球好きな少年の頭には野球しか頭になく、繁殖機会が高まることを狙って白球を追っているのでないでしょう。けれど、根本をたどれば繁殖機会という話にたどり着くのです。「なぜ好きなのか」と理由たどっていけば、「野球は面白い」→「野球が上手くなりたい」→「メジャーでプレーしたい」→「大勢の前で活躍したい」→「人生で成功したい」と、繁殖機会の話に近づきます。
私たちは一般的に「長生きすることで幸福を得られる」と考えがちですが、そうではありません。生存よりも繁殖を優先した方が、幸福感を得やすいのです。というか、知らずしらずのうちに繁殖を優先します。臆病という性格を考えてみましょう。例えば、何か悪いことがあるとすぐに身を隠す性格の男性がいたとします。この男性の性格は、生きるのには都合がいいものですが、繁殖を考えたときは「良い選択をしている」とは言えません。なぜなら、多くの女性は男性に、臆病よりも勇敢を求めるからです。コソコソしているよりも、堂々とした方がモテる。だから、勇気を出した行動をしているときに幸福感を得やすいし、勇気のある行動には称賛が集まるのです。『SLAM DUNK』の赤木ハルコさんは、流川の危険を顧みないプレーを見て目がハートになるのです。同様の格言は、『ゴルゴ13』にも見られます。スナイパーという命を狙われやすい仕事をしている東郷。彼が生き残っているのは、臆病なラビットだからであり、勇猛なタイガーだからではありません。ラビットは生きるには有利だけれど、称賛は集まりません。褒められる生き方は勇猛なタイガーです。映画でも、ヒーロー(正義)は常に危険を顧みない行動をとります。バットマンもスパイダーマンも、身を挺して持たざる市民を救います。そしてヒーローのような生き方に我々は憧れます。多くの称賛を集めて繁殖の確率が上がる生き方に、我々は憧れます。幸福感の取得に関わるのは、生存よりも「繁殖できるかどうか」なのです。では、どうすれば繁殖機会は高まるのでしょうか。
それは、自分が子孫を残すに足る有能な個体であることを示すことです。我々人間を含め、大抵の動物はパートナーと力を合わせて繁殖しなければならないため、繁殖しようとすれば相手の気を惹かなくてはなりません。相手の気を惹き、自分が有能な個体であることのアピールが不良なのです。例えば、インドネシアに住むゴクラクチョウという鳥は派手な色や形状の羽根を持っています。これは「捕食者に見つかりやすい」という意味で一見不利なように見えますが、「これだけのリスクをとっても自分は生き残っていられる」という異性に対するアピールにもなります。派手な色や形状の羽根は、派手であればあるだけ、「不利な条件でも生き残れる」という説得力のある証明になり、派手であればあるほど異性には魅力的に映ります。太平洋のバヌアツ共和国にある、ある島では、成人の義としてバンジージャンプのような風習が残っているそうです。高い塔を立て、そこから飛び降りることで、自分の技量と勇気を示す。自分が計算高く、強靭な体の持ち主であることを、バンジージャンプで証明するのです。我々動物は、異性に対するメッセージとして、リスクをくぐり抜け、自分が有能な個体であることを示します。自分が有能であることを示すことで繁殖機会が高まるので、わざわざリスクをくぐり抜けようとする。その生死を顧みない行動が、バカげているように見えるのです。
というわけで、一見バカげた行動に見える不良とは、幸福を得るための行動であり、しっかりと論理づけられるものです。赤木ハルコさんは女子の普遍的な姿だし、デューク・東郷のセリフは真理をついています。ヒーローものの映画はこれからも世界各地で上映され、ヒーローに憧れる子どもたちは絶えることがありません。生存よりも繁殖を優先するのです。繁殖機会が高まる活動に我々は幸福を感じるし、繁殖機会を高めるには、自分が魅力的であることを示さなければなりません。自分が魅力的であることを示すための行動が、不良なのです。
「タバコを吸っても大丈夫」
「授業を真面目に受けなくても平気」
「暴力なんてどうってことないよ」
実際に繁殖機会がアップしなくても、本人が意識しているしていないに関わらず、不良とは、幸福を得るための行為であって、利益に付いて回るコストのようなものなのです。だから、不良はいつの時代もどこの地域でも無くならないのです。『SLAM DUNK』における三井寿の乱は、形を違えて、いつ時代どこの地域でも普遍的に見られる光景なのです。
参考